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タフィ・ローズ(プロ野球・オリックス)

タフィ・ローズ(Tuffy Rhodes、1968年8月21日 - )は、オリックス・バファローズ所属のプロ野球選手である。アメリカオハイオ州シンシナティ市生まれ。本名は、カール・デリック・ローズ(Karl Derrick Rhodes)。左投げ左打ちの外野手。背番号は8。


【人物】
日本プロ野球界で「史上最強助っ人」との呼び声が高い選手。パワフルな打撃とインタビューなどでの関西弁のトークで人気がある。1996年から2003年まで近鉄バファローズ(1999年から大阪近鉄バファローズ)に所属。2004年から2005年まで読売ジャイアンツに所属後自由契約。2006年、シンシナティ・レッズとマイナー契約後、成績不振から降格通告を受け、3月21日に現役引退を表明するが2007年、オリックス・バファローズ入団。


【略歴】
■1986年 ドラフト3位でヒューストン・アストロズに入団。
■1990年 メジャーリーグ昇格。
■1993年 シーズン途中でシカゴ・カブスに移籍。
■1994年 開幕戦のニューヨーク・メッツ戦で1番として出場し、メッツのエースであるドワイト・グッデンから第1打席より3打席連続本塁打を放ちメジャーリーグで名が知れ渡る(開幕戦3本塁打は現在もメジャー記録)。
■1995年 シーズン途中でボストン・レッドソックスに移籍。
■1996年 近鉄に入団。シーズン3本のサヨナラ本塁打を放ち、この年チーム三冠王となる活躍を見せる。
■1997年 8月にパ・リーグ新記録(当時)となる4試合連続猛打賞を記録するなど活躍し、初のベストナインを獲得した。
■1999年 シーズン途中からチームが最下位に低迷する中で成績を伸ばし、40本塁打・101打点を記録して、初の本塁打王・打点王のタイトルを獲得した。
■2001年 9月24日の大阪ドームでの西武ライオンズ戦で松坂大輔から本塁打を放ち、日本タイ記録となるシーズン55本塁打を達成してチームのパ・リーグ優勝に貢献。初のMVPにも選出された。日本シリーズでも第2戦で決勝3ランを放つなど活躍し、敢闘賞を受賞した。
■2002年 打点王を獲得した。
■2003年 51本塁打を放ち、3度目の本塁打王獲得(当時、外国人選手の受賞回数最多タイ)。また、3年連続ベストナインにも選出された。同年オフに近鉄との契約交渉が難航し(詳細は後述)、巨人に移籍した。
■2004年 巨人に移籍。落合博満につぐ史上2人目の両リーグでの本塁打王獲得。同年途中にフリーエージェントの権利を取得し、翌シーズンから日本人扱い(郭泰源に続き2人目)。近鉄時代とは異なり、中堅手としての守備起用が主となる(近鉄時代は、守備はDHを除けば左翼手か右翼手が多かった)。
■2005年
・5月29日の試合で球審に暴言を吐いたとして通算9回目(近鉄で6回、巨人で3回)の退場処分(金田正一を抜いて最多記録)。
・8月9日に右肩の故障のためであるとして出場選手登録を抹消され二軍落ち。その後、帰国し手術を行ったためシーズン中の復帰は絶望となった。
・11月7日、巨人から戦力外通告を受ける。
■2006年
・2005年の年末頃からオリックス・バファローズとの契約へ向け本格交渉している動きがある、と報じられた。
・2月16日、シンシナティ・レッズとマイナー契約する事で合意、契約に至る。しかしオープン戦では12試合で27打数6安打と奮わず、レッズからマイナーリーグ降格を通達された。
・3月21日に現役引退表明。
■2007年
・2006年のオフにオリックス・バファローズの球団関係者に電話で「日本で野球をやりたい。手術した右肩の状態も大丈夫。」と日本球界への復帰を伝えた。2007年に入り、キャンプでテストを実施する事が決定、オリックス・バファローズの入団テストが実施された。
・2月26日にテスト合格した。
・3月1日正式に入団が決定。背番号は8。理由は「近鉄で8年間プレーし、親友の中村紀洋がつけていた番号だから」(ちなみに入団テスト期間中は、もし合格したなら背番号は近鉄に入団した年にちなんで96がいいといっていた)。
・3月24日のパ・リーグ開幕戦(対ソフトバンク1回戦)でいきなり斉藤和巳から第1号となる特大本塁打を右翼席へ放ち、自身の復帰戦を飾った。
・4月4日の対ロッテ2回戦で小野晋吾から第4号本塁打を放ち、日本球界では歴代28人目、外国人選手では初となる通算1000打点の記録を達成した。(1325試合目での達成は落合博満、藤村富美男に次ぐ史上3位のスピード記録)
・4月25日の対楽天4回戦で、山崎武司に与えた死球をめぐり乱闘となり、山崎に対し暴力行為を働いたため、通算10回目の退場処分を受け、退場最多記録を更新した。選手として在籍した3球団で退場処分を受けたのは、日本プロ野球史上初である。
・5月10日の対ロッテ8回戦で、1354試合目の出場となり、ロベルト・バルボンが持っていた外国人選手の最多出場記録を更新。
・5月27日の対巨人2回戦で、「全球団から本塁打」を達成。
・6月13日の対巨人戦で、在籍11年連続20本塁打を達成。
・6月30日の対日本ハム戦で、通算1500本安打を達成。外国人選手ではレロン・リー(通算1579本安打)に次ぎ史上2人目である。
・9月2日の対ロッテ戦で通産400本塁打を達成。日本プロ野球において、外国人選手の通産400号は初となる。(全体では単独14位。1435試合で400号達成は、王貞治の1422試合についで史上2番目のスピード記録である)


【概要】
■身長・体重:182cm・104kg
■投打:左投左打
■出身地:アメリカ・オハイオ州
■球歴・入団経緯:ウェスタンヒル高 - アストロズ・アストロズ傘下(1987年 - 1993年途中)- カブス(1993年途中 - 1995年途中)- レッドソックス(1995年) - 近鉄・大阪近鉄(1996年 - 2003年) - 巨人(2004年 - 2005年)- 野球浪人 - オリックス(2007年 - )
■FA取得・行使:2004年(1回目・現在も有資格者)
■英語表記:RHODES
■背番号:8
■守備位置:外野(1996年〜2000年は主に右翼手、2001年〜2003年は主に左翼手。2004年〜2005年は主に中堅手。)
■推定年俸:4700万円+出来高(2007年)


【獲得タイトル】
■本塁打王 4回(1999年、2001年、2003年、2004年)
■打点王 2回(1999年、2002年)
■MVP 1回(2001年)
■ベストナイン 6回(1997年、1999年、2001年〜2004年)
■日本シリーズ敢闘賞(2001年)


【エピソード】
■「タフィ」はタフ(tough)からきている。この由来に関しては、幼少時代、顔面に死球を受け鼻血を出したにも関わらず翌日の試合では元気に試合に出場している姿を母親に「タフだ」と言われたから、同様に顔面に死球を受けたにも関わらず試合に出続けた姿を見た監督が「タフな奴だ」と言ったからの2説が一般に流れているが、前者の母親が絡んでくる話は巨人入団後のプロフィールに記載されたものであり、それ以前の近鉄在籍時には監督絡みの話であったことから母親絡みの方が誤りである可能性が高い。

■MLB在籍時代、俊足の持ち主でもあるローズにはトップバッターとしての活躍が首脳陣から期待されていたが、ローズはホームランバッターとして試合に出たかった為に首脳陣と折り合わず、その夢を実現するために日本に来ることを決意した(ローズが俊足である裏づけとして、来日直後の3年間で48盗塁を記録し、最初ステレオタイプに該しない俊足、好守備の助っ人として注目されていたことが挙げられる)。


《近鉄時代》
■ローズはバットを上段に構えてひょこひょこ振ってタイミングを取る独特のバッティングフォームをしているが(一部の書籍では「水平打法」と記載)、実は1998年までは「バットを立てて構える」、1999年以降は「バットを寝かせて構える」といった微妙なマイナーチェンジがなされている(2冠王となった1999年にフォームを変えたことで成績が良くなったと本人が話している)。また、上段から振り上げるそのバッティングスタイルのせいか、内角低めの膝元に来る球に非常に強かった。

■凡退や審判への不満でよくヘルメットを壊していた。特に来日当初はヘルメットを壊して当たり散らすことが多く、困った用具係が苦肉の策としてシーズン中に壊したヘルメットの数をシールにし、ヘルメットに貼り付けていた。だが、ローズは当初このナンバリングの意味が分からず「どうして背番号じゃない番号が貼ってあるんだろう」と首を傾げていたという。

■ヒーローインタビューでは、当時監督だった佐々木恭介の台詞「ヨッシャー!!」を絶叫していた。また、シーズン中には様々な形で日本文化に触れ、またオフの帰国中にも日本語を学ぶなど、日本に強い興味を抱いている。あるインタビューでローズは「今度生まれ変わったら日本人に、それも関西人に生まれてきたい」と語っている。

■来日当初は大阪市中心部から藤井寺球場まで近鉄南大阪線を使って電車通勤していた。大型バイクに乗るのが好きで、その後バイクまたは自動車での通勤が認められ、日本のバイクメーカー川崎重工業のZZR400やVULCAN1500 クラシックツアラーなどを愛用していた。

■大阪ドーム外野席には55号本塁打が着弾した(とされる)座席を「ローズシート」とし、一番近い入り口に記念プレートを設置し、ホームランボールが当たった座席は特別にローズ色(バラ色)に塗られている。

■2001年、シーズン最多本塁打記録の更新に挑んだが、9月30日の福岡ダイエーホークス戦で敬遠四球を受けたこともあり、達成できなかった。この際に当時ダイエーのバッテリーコーチであった若菜嘉晴が試合前、監督不在のミーティングで「どうせあいつはアメリカに帰るんだから、俺たちが監督の記録を守ってやらないといけない」と言って敬遠を指示した。このことは、日本以上にアメリカで反響を呼んでしまい、「王貞治の記録を守ろうとする日本プロ野球の閉鎖的な姿勢」「人種差別と戦ったハンク・アーロンの記録を抜いた王自身が、人種差別をして自らの記録を貶めた」などと地元誌やニュース放送等で非難されることになってしまった。王貞治はこの試合前の練習の際に直接ローズに対して本塁打新記録達成を望む声をかけていた。それにも拘らず試合では敬遠を止めなかったため、若菜だけではなく現場の最高責任者である王にも責任があると王を非難する声もあった。更に、ローズは1打席でも多く立てるようにと1番バッターとして出場していたが、1打席目からボール球ばかりで、業を煮やしたローズはボール球に手を出し凡退、2打席目も同様で、3打席は四球、4打席目は敬遠であり、この日ローズには2球しかストライクゾーンにボールが飛んでこなかった。ローズの1番起用にはバッテリーの敬遠を避ける意図もあった(1回の先頭打者から敬遠することは通常ありえないため)が反面、トップバッターとして立ったことに個人記録だけを狙っているとして批判する声もあった。ローズは試合前に王監督から上述のように声をかけられたにも拘らず試合では敬遠を受けたため、試合後に「日本プロ野球に失望した」という悲しみのコメントを残した。試合は4-12で敗戦。なお、事態はこれだけに留まらず、翌10月1日、当時のプロ野球コミッショナー川島廣守がフェアプレーを訴える異例のコミッショナー宣言を出し、個人記録への妨害を意図する行為の排除を強く求めた。また10月2日、パ・リーグの小池唯夫会長はダイエーに対し、ローズとの勝負を記録阻止のために意図的に避けたともとれる言動をしたとして厳重注意を行った。

■同年、ローズが王貞治のシーズンホームラン記録55本の記録を塗り替えようとしているとき、テレビタレントで司会者の徳光和夫が生放送中に「肌の色が違って、血液型もよくわからないような奴に王さんの記録を抜いて欲しくない」と発言する。

■大阪近鉄は同年、12年ぶりのリーグ優勝を果たしたものの、日本シリーズではヤクルトスワローズの前に敗れた。しかし同年シーズン、ローズと中村の合計本塁打数101本、打点263点は当時の日本記録。この記録はお互いのアドバイスが大きいと当時の2人は語った。また、3番ローズ、4番中村紀洋、5番礒部公一でのクリーンアップでの合計打点354点も日本記録(後にコンビ合計・クリーンアップ合計の打点は2005年阪神の金本知憲、今岡誠、アンディ・シーツが更新)。

■同年オフ、川崎重工業はローズに対し、55号本塁打達成記念として排気量1500ccの大型バイク・VULCAN1500 ミーンストリークをベースにしたオリジナル仕様の「ローズバイク」を贈呈した。ローズが以前からカワサキのユーザーである事を公言していたのが縁となった。このバイクは苗字のローズ(バラ=ROSE。タフィはRHODESでつづりが違う)にひっかけて色は赤を基調とし、後部には「狼主」の文字が刻まれていた。(同年ファン感謝デーで本人に1台、ファンに抽選で1台プレゼントされた。)

■2001年、少年サンデー超2001年11月号に「タフィ・ローズ物語」が掲載された。

■2001年〜2003年、ローズは西武ライオンズのアレックス・カブレラと3年続けて本塁打王争いを繰り広げることとなる。ローズは2001年、
2003年と2度に渡りカブレラを上回り、本塁打王を獲得した。これによりカブレラは、「50本塁打を記録しながら本塁打王になれなかった」プロ野球史上初の選手となった(2001年ローズ55本、カブレラ49本。2002年ローズ46本、カブレラ55本。2003年ローズ51本、カブレラ50本)。

■2003年序盤戦、近鉄の主砲であるローズと中村は厳しい内角攻めを受けていた。5月21日に大阪ドームで行われた西武ライオンズ9回戦の5回裏、中村が西武二番手の青木勇人から左肘に死球を受けた。この際、青木が帽子を取って謝罪しなかったため、これに一走・ローズが激高。一塁からマウンドに駆け寄ると青木を激しいタックルで突き飛ばし、その場に押し倒してしまった。青木は突き飛ばされた瞬間に頸部と右足首を捻挫し途中降板、大阪市内の病院に直行した。この時、青木は投捕間にだけ目をやっていたため、左後方からローズが突っ込んでくることには全く気付かず、当然身構えてもいなかった。このように青木を“不意討ち”したローズは暴力行為で退場となったが「ノリを守るためにやった。どうして青木は帽子を取らなかったんだ? 日本の野球では球をぶつけたら、投手が帽子を取って打者に謝るのが普通じゃないか」と主張した。しかし翌日パ・リーグは2試合の出場停止処分、近鉄球団も厳重注意と30万円の罰金を課した。また、このローズの行動に対し西武は猛反発。一時は刑事告訴を検討する事態にまで発展した。ローズはこのような血気盛んな性格もあってか、日本プロ野球在籍中に課された退場処分は通算11回を記録しており、これは日本プロ野球史上最多である。またオープン戦での退場や1試合に2回退場を宣告されたという珍しい記録もある。

■2003年シーズン終了後、中村の5年契約を引き合いに出して2年ないし3年の複数年契約を望んでいたが、近鉄フロントは「複数年契約を認めない」と主張した。ローズは当時「外国人差別的なフロントの言い分に失望した」「どんなに活躍しても『ガイジン』としてしか扱ってくれない」と発言し、フロント及び日本プロ野球界を非難した。外国人選手に対しての複数年契約は認めないという話は2002年にも言われたという。

■一方近鉄フロントは「外国人選手に対しては1年契約とするのが原則」とし、近鉄本社の山口昌紀社長は、「あのブライアントでも1年契約の積み重ねだった」「ローズには年俸10億円を払っていた(2004年。真相は不明)」と主張。交渉は決裂、巨人と契約することとなった。

■梨田昌孝監督には「養子にしたいくらい」と可愛がられていた。

■近鉄時代のヘッドコーチ伊勢孝夫を「日本のお父さん」と慕っており、彼がヘッドコーチからフロントへ転進した後も打撃がスランプに陥った際は指示を仰いでいた。

■来日してから1999年頃までは主に中村紀、フィル・クラークらとクリーンアップを組み、年によって打順は3番〜5番の間でバラバラであった。しかし2000年頃から2003年まで3番ローズ、4番中村紀で打順がほぼ固定された。2001年頃には、日本記録ペースで本塁打を量産するローズを4番に据えた方が良いのではないかという声も上がったが、ローズ自身が「俺は気楽に打てる3番のほうが良い、4番はノリに任せた」という趣旨の発言で否定した。

■2003年近鉄退団が決定したシーズン終了後、愛車を知人を介してヤフーオークションに出品した。


《巨人時代》
■2004年に巨人移籍。事故による負傷を防ぐため、通勤手段は車のみに切り替えたが、国際運転免許証の更新が切れていたことが発覚し、日本での運転は自粛。その後は主にハイヤーで通勤していた。

■ヒーローインタビューは、近鉄時代は日本語での受け答え(「ヨッシャー」等)を行っていたが、巨人では誤解を招く可能性がある事から原則通訳を介したインタビューとなっていた。インタビュアーの質問を通訳を介さずに直接聞き取り自らの英語の答えを通訳に日本語に訳してもらうという一風変わった場面も見られた。また「ヨッシャー」も関東の球団に移籍したのに合わせて「ヤッタゼー」に変更するプランもあったようだが実現せず、チームメイトの阿部慎之助がインタビューなどで発する「最高でーす!」を多用するようになった(オリックス入団後もしばしば発している)。

■同年、ローズは巨人移籍1年目にしてシーズン45本塁打を記録し、日本プロ史上2人目となるセ・パ両リーグ本塁打王に輝いている。

■2005年正月の報知新聞インタビュー上で「登録を狼主(ろうず)にしたい」「巨人引退後は和室を作り、バットを飾りたい」と答えており、野球人生を巨人で終える考えを持っていた。

■2005年4月26日、福岡ドームで行われたヤクルトスワローズ4回戦の9回表、ヤクルト・アレックス・ラミレスが放った左中間への打球を追わなかったのを、当時守備・走塁コーチ兼打撃コーチ補佐の弘田澄男に「緩慢プレーだ」と指摘されると、ローズはこれに激高し、弘田に掴み掛かるなど激しい口論となった。結局試合は敗戦で5連敗。試合後もローズは怒りが収まらず、ドームから宿舎に向かう通路で報道陣からこの騒動について問われると、必死になだめる通訳を制して「どんどん(記事に)書いて」と前置きした上で「負けたのは俺のせいだと弘田さんが言った。日本で10年間やってきたけど尊敬がない。投手があれだけ打たれるのも俺のせい? ピッチャーも悪い。みんな悪い。ジャイアンツ下手くそ。ジャイアンツ大嫌い。東京に帰る」と日本語でまくし立てた。この言動は物議を醸し、後日オーナー側から罰金を徴収された。結果としてこの発言が、シーズン後の戦力外通告の遠因になったと言われている。


《オリックス時代》
■バファローズ復帰を決めた際の記者会見の第一声は日本語での「タダイマ」であった。

■近鉄時代から大好きだったバイクを封印。現在は怪我をしないよう大型のRV車で球場まで通勤している。

■自宅が同僚のランス・カーターと近いらしく、車で通勤する際は彼を同乗させて球場まで送っている。

■オリックスに所属しているすべての外国人選手と積極的にコミュニケーションを取っており、しばしばベンチで談笑している。また、同僚の話を親身になって長時間聞いている姿も見受けられる。

■同僚外国人とのコミュニケーションに留まらず、試合中守備についている外野手のチャド・アレンに対してローズがベンチからの守備位置の細かい調整を伝達することもある。

■近鉄時代の友人から親指大のビリケン人形をもらい、それ以降成績が上昇している(本人談)。その人形をベンチ前のフェンスに設置した小さな椅子の上に置いており、お守りとしている。このインタビューをした梨田昌孝が、「今年は50本(のホームランを)打つ。達成したらチュー(キス)する。」と言い、それに対してローズは、「結構です!」と日本語で笑いながら答えていた。(2007年6月21日NHK大阪放送局「かんさいニュース1番」スポーツコーナーの特集より)

■ドージマ地下センター「ドーチカエンジェルサマーフェア07」のフェア応援団長を務める。

■オリックス球団の「サラリーマン応援デー」の企画発表会見に登場し、メガネをかけたスーツ姿、それに自慢だったドレッドヘアーを丸刈りにして報道陣をビックリさせた。(球団が作成したサラリーマン姿のローズのフィギア人形も丸刈りだった)

■ローズの応援歌は、曲自体は近鉄時代と同じであるが、歌詞は『ローズにとって再出発』という意味で変更された。


【その他】
■大振りしてしまった際に、自分を戒めるためにバットでヘルメット(自分の頭)を叩くクセがある。

■長い日本での生活にも慣れ、「狼主」と漢字名の名前をサインに使ったりしている。日本語のレベルもかなり高く、漢字も読める。ローズ本人は関西暮らしが長いため、関西弁を話す場面がよく見受けられる。チームメイトとは日本語で会話を交わし、ヒーローインタビューでもインタビュアーの言葉をほぼ理解しているので英訳は必要無く、ローズが英語で話し通訳が和訳する、というスタイルで行われている。インタビューの内容によっては、通訳を介さず、日本語で直接答える。また、近寄ってきたファンにも日本語で会話をしている。巨人移籍時、発言によるトラブルの発生を避けるため、「記者と会話する際は、基本的に通訳を介して話すように」という契約が交わされている。判定に対する文句を英語で言った際、その審判が元オリックス・ブルーウェーブで英語の通訳をしていた人物であり、ローズの発言に対して退場を宣告した。これに対して、ローズは試合後「あの審判は英語が話せるのを忘れてた」と発言していた。

■焼き鳥が好物で近鉄時代は焼き鳥チェーン店によく通っていた。オリックスに復帰後、関西に帰ってきた事もあり再び同じ焼き鳥チェーン店に通っている。店では焼き鳥や料理に舌鼓を打ちつつ、日本語と簡単な英語を交えて店員や居合わせた客と談笑するなどリラックスしている。ローズはこの店を「野球の話題を忘れられる唯一の場所」と語っている。

■2000年頃まで新聞記者に「横浜のローズと何か関係があるのか?」と尋ねられることが何度もあったそうだが、その度にローズはユニフォームの背中部分を見せ、「よく見てくれよ。俺のはROSE(バラ=ロバートの表記)じゃなくてRHODES(ロドス島)だろう?」と呆れながら答えていたらしい。また、その綴りを間違ってユニフォームに書かれたために怒りを示したこともある(「プロ野球珍プレー好プレー」にて)。

■長期に渡る在日年数により、近鉄時代から同じチームに所属する新外国人選手の様々な面での相談役であり、かつてのチームメイトだったジェレミー・パウエルには日本野球の攻守に於ける特長や生活に関しても相談を受けていた。パウエルの好物である焼き鳥はローズに教えられたものだとパウエル自身が発言している。

■2000年から2004年まで同じ関西球団に所属していたジョージ・アリアスとは、アメリカ合衆国出身であったことから非常に仲が良く、阪神時代のアリアスと同じマンションに引っ越した際は、たびたび料理や甲子園球場に招待されていた。甲子園球場でジェット風船を飛ばす姿が新聞記事に掲載されていた。また、その際に新聞記者に取材されており、「僕は阪神ファン。特に井川が好き」とジョークが好きでサービス精神旺盛な彼の性格を表す応答をしていた。

■息子(カール・ジュニア)が来日するとバッティングの調子が上がっていた。そのため一部のファンからはずっと息子に滞在して欲しいという声が上がった。(バッティングについては夜遊びできなくなるため普段より良いコンディションで試合に望めただけという説もある)。しかし、逆に調子が悪くなると、夜遊びが出来なくてストレスが溜まっている、という噂が流れていた。

■NHK大阪放送局の取材に応える前川勝彦の後ろで、何故か大仏を模した覆面を被って邪魔をしていた。

■原因は全くの不明であるが、近鉄時代には打率が必ず年によって交互に上がる下がるを繰り返し、本塁打数や打点数にもその傾向が見られ、巨人に移籍してからも続いた。

■几帳面な性格で、打席に向かう前にネクストバッターズサークルの道具をきちんと並べる。この並べ方は毎打席同じ並べ方で、滑り止めのスプレーに貼付されているラベルの方向も同じ。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070902-00000101-jij-spo

山崎武司(プロ野球・東北楽天)

山崎 武司(やまさき たけし、1968年11月7日 - )は、愛知県知多市出身のプロ野球選手。現在は東北楽天ゴールデンイーグルス所属。背番号7。ポジションは内野手であるが、指名打者での出場が多い。右投右打(ちなみに、箸は左手)。左手一本のフォロースローでレフトスタンドに打球を放り込む豪快なプルヒッティングが持ち味である。

1999年5月21日より、登録名を『山崎 武司』から『山ア 武司』へ改めた(後述)。


【略歴】
■身長・体重:182cm 100kg
■投打:右投右打
■出身地:愛知県知多市
■血液型:A型
■球歴・入団経緯:愛工大名電高 - 中日(1987年 - 2002年) - オリックス(2003年 - 2004年) - 東北楽天(2005年 - )
■プロ入り年度・ドラフト順位:1986年(2位)
■FA取得・行使:2001年(1回目・行使残留)、2006年(2回目・現在も有資格者)
■英語表記:YAMASAKI
■背番号:22(1987年 - 2002年) - 5(2003年 - 2004年) - 7(2005年 - )
■守備位置:一塁、指名打者、外野、(捕手)
■推定年俸:8250万(2007年)


【球歴】
《プロ入り前》
■知多市立八幡中学校出身。先輩に伊藤敦規投手、後輩に浅尾拓也投手(浅尾の兄が山崎とは中学時代の同級生)がいる。

■愛知工業大学名電高等学校(1983年に名古屋電気高等学校から改称)出身。甲子園出場経験はないものの、通算56本塁打を放っている。ちなみに、現・横浜ベイスターズの工藤公康は5年先輩、現・シアトル・マリナーズのイチロー(本名・鈴木一朗)は5年後輩に当たる。(イチローが大リーグ入団した年のオフにこの先輩後輩の3人衆で写真を撮っている)

■1986年のドラフトで中日ドラゴンズから2位指名を受け、捕手として入団する。ちなみに、同年のドラフト1位は同じ名古屋市にある享栄高校の左腕エース近藤真一(1993年に真市に改名)。


《中日時代前半(ナゴヤ球場時代)》
■1987年、中日でプロ野球選手としてのキャリアをスタート。この年に中日の監督に就任した星野仙一の親友でもある田淵幸一に因み、背番号22を与えられる。入団直後、ロサンゼルス・ドジャース傘下のチームへ野球留学した時には、三塁手としてプレーしていたが、帰国すると捕手に戻る。この年は一軍出場なし。ちなみに、同期入団の近藤は一軍初登板(初先発)でノーヒットノーランを達成するなどの大活躍を見せた。

■1988年も一軍出場なし。ちなみにこの年、中日は6年ぶりにセ・リーグ優勝を果たし、1年後輩の立浪和義が新人王に選ばれている。

■1989年、9月7日の対広島東洋カープ19回戦(広島市民球場)において一軍初出場(9回表、代打で起用される)。9月10日の対ヤクルトスワローズ19回戦(ナゴヤ球場)においてプロ初安打(9回裏、内藤尚行からレフト前ヒット)を放つ。10月15日の対広島26回戦(広島)において、先発捕手として出場するが、盗塁王を狙う正田耕三に5連続盗塁を許し、試合途中で2年先輩の正捕手中村武志と交代させられる。これ以降、外野手に転向。二軍では、ウエスタン・リーグの本塁打王、打点王を獲得する。

■1990年、ウエスタン・リーグで本塁打王、打点王を2年連続で獲得する。

■1991年、5月9日の対横浜大洋ホエールズ5回戦(横浜スタジアム)において、5回表に田辺学よりプロ入り初本塁打を放つ。

■1993年、一軍での出場を増やし、先発右翼手となりかける。

■1994年、チームの主砲落合博満がFA宣言をして読売ジャイアンツへ移籍。代わりに大豊泰昭が外野手から内野手へ転向する。山崎にとっては出場機会を増やす好機であったが、彦野利勝の復活などにより逆に出場機会を減らしてしまう。

■1995年、16本塁打を放ち、先発左翼手となる(開幕前の自主トレでは同い年で現役のWBC世界バンタム級チャンピオン薬師寺保栄に師事しボクシングの練習を取り入れた。山崎と中日同期入団である近藤は薬師寺と享栄高校の同級生で、その縁で交友があった。山崎は、1994年12月4日、名古屋市総合体育館で薬師寺が暫定王者辰吉丈一郎破り3度目の防衛=王座統一した世紀の一戦をリングサイドで観戦している)。

■1996年、星野が中日の監督に復帰。5月1日の対巨人5回戦(ナゴヤ)において、5回裏にバルビーノ・ガルベスの投球に憤慨してマウンドへ詰め寄り、乱闘騒ぎのきっかけを作ったとされ、ガルベスとともに退場処分を受ける。6月19日の対巨人10回戦(ナゴヤ)において、8回裏に槙原寛己から5番・音重鎮、6番・山崎、7番・大豊が3者連続本塁打を放つ 。6月は打率.403、13本塁打、33打点を記録し、月間MVPに選ばれる。オールスターゲームまでのシーズン前半を打率、本塁打、打点の三部門のトップで終え、オールスターゲームにも監督推薦で出場する。中日・巨人ともに最終戦となった10月8日の対巨人26回戦(東京ドーム)において、39本塁打の山崎は、38本塁打の松井秀喜(当時・巨人/現・ニューヨーク・ヤンキース)、37本塁打の大豊と本塁打王を競っており、中日投手陣は松井に全打席四球を与えて最終的に39本塁打の山崎が、38本塁打に終わった松井、大豊を抑え、単独で本塁打王を獲得する。最高長打率(.625)も記録し、ベストナインにも選ばれる。ちなみに、この年の山アは打率、本塁打、打点のすべてで松井を上回ったが、巨人が優勝したため、松井がシーズン最優秀選手に選ばれている。


《中日時代後半(ナゴヤドーム時代)》
■1997年、中日の本拠地がナゴヤ球場からナゴヤドームへ移るが、中日は新しい本拠地に適応できず5年ぶりのセ・リーグ最下位に終わる。山崎も外野が広くなり守備の負担が増えたことなどから、打撃成績を大幅に落とす。

■1998年、一塁手であった大豊が阪神タイガースへトレードされたため、この年から主に一塁手としてプレーすることになる。8月18日の対ヤクルト18回戦(神宮)において、2回表にプロ入り通算100号本塁打をマーク・エーカーより放つ。通算100本塁打達成はプロ野球史上198人目。この年は16勝利打点を記録し、最多勝利打点で表彰される。27本塁打は、巨人の松井、広島の江藤智(現・西武ライオンズ)に次ぐ、セ・リーグ3位。最優秀JCB・MEP賞を受賞する。11月1日のセ・リーグ東西対抗戦(宮崎市営球場)において、3点本塁打を放ち、最優秀選手賞を受賞する。

■1999年、5月9日の対広島9回戦(広島)において、5回、6回、8回に、3打席連続本塁打を放つ。9月26日の対阪神26回戦(ナゴヤドーム)、中日が2-1とリードしていたが、9回表に抑えの守護神・宣銅烈がマーク・ジョンソンに3ラン本塁打を打たれ2-4と逆転される。しかし、9回裏一死一・二塁で福原忍から逆転サヨナラ本塁打を放って中日が勝利する。この時に取った、両足を広げ拳を握り両手を掲げた「X」字型のポーズは、ファンの間で山崎の代名詞とされている。この日の勝利により優勝へのマジックナンバーを5とした中日は、4日後の9月30日、対ヤクルト26回戦(神宮)で11年ぶりのセ・リーグ優勝を決める。しかし、この試合で一塁守備中に打者走者の真中満と交錯して左手首を骨折。このため、山崎は福岡ダイエーホークスとの日本シリーズに出場することができず、チームも1勝4敗で日本一を逃した。

■2000年、7月12日の対阪神15回戦(ナゴヤドーム)において、7回裏にプロ入り通算150号本塁打を吉田豊彦(現東北楽天ゴールデンイーグルスであり、同僚)より放つ。通算150本塁打達成はプロ野球史上114人目。オールスターゲームに監督推薦で出場。7月23日にグリーンスタジアム神戸で行われた第2戦において4打数3安打2打点と活躍。MVPを受賞する。シーズンでは打率.311と、1996年の打率.322に次ぐ好成績を記録するが、契約更改で18本塁打が少な過ぎると指摘される。

■2001年、10月6日の対広島28回戦(広島)において、プロ入り通算1,000試合出場を記録する。1,000試合出場達成はプロ野球史上376人目。この年、チーム最多の25本塁打を放ったが、契約更改で今度は打率.238、51打点が低過ぎると指摘される。この評価に納得がいかずFA宣言。一時は金銭面で好条件を提示された横浜ベイスターズ移籍へ傾くが、最終的には中日と3年契約を結び残留。ちなみにこの年、1年後輩の立浪が中日と4年契約を結び、チームリーダー、幹部候補としての立場を明確にする。

■2002年、チームのヘッドコーチを務めていた山田久志が監督に就任。山崎はオープン戦から不調で、4月末に二軍へ降格させられる。二軍戦でも不調が続いたが、レオ・ゴメスの故障により、7月初旬から一軍復帰。7月26日の対阪神15回戦(甲子園)において、同点で迎えた9回表に満塁のチャンスで空振り三振。チームもサヨナラ負けを喫してしまう。試合後、山田は「どこかでブツっと切ってしまう。なんかお通夜みたいなもんだ。さらにアイツを使うオレが悪いんだけど。チームを奈落の底につき落としてしまう選手がいる。何とかしてくれたらいいんだけど」と発言する。この発言が山崎を指したものか不明であったが、この後もほとんど出場機会を与えられることはなく、この年のシーズン終了後、平井正史との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍することとなる。


《オリックス時代》
■2003年、平井との交換トレードでオリックス入り。背番号5を与えられる。この年、オリックス監督を務めていたのは石毛宏典であったが、開幕から1ヵ月も経たない4月23日に解任となり、打撃コーチのレオン・リーが新監督に就任する。8月19日の対ダイエー22回戦(福岡ドーム)において、2回表にプロ入り通算200号本塁打を倉野信次から放つ。通算200本塁打達成はプロ野球史上77人目。8月25日の対日本ハムファイターズ22回戦(ヤフーBBスタジアム)において、2回裏に関根裕之の投球を球審・白井一行に見逃し三振と判定されたのに不満を示すと、球審に侮辱的な態度を取ったとして退場処分を受ける。この年、規定打席不足ながらチームの日本人選手の中では最多の22本塁打を放って気を吐くが、オリックスは2年連続パ・リーグ最下位に終わる。ちなみにトレード相手の平井はこの年12勝を記録。見事に復活を遂げてカムバック賞を受賞している。

■2004年より、前年まで西武ライオンズ監督を務めていた伊原春樹がオリックス新監督に就任。4月27日からの西武との3連戦(ナゴヤドーム)において、ご当地選手であるため伊原から先発を公約されており、この日の試合では指名打者として先発出場。3打数2安打と活躍する。しかし、この試合中に負傷した谷佳知を伊原が翌28日に指名打者として先発させたため、山崎は先発から外される。関係者も多数招待していた試合での先発落ちにショックを受け、試合開始前に自宅へ帰ってしまう。これまで打率.390(41打数16安打)と好調だったが、試合前に帰宅したことで「職場放棄」と見なされたのか、その翌日に懲罰的な意味で二軍へ降格させられる。これ以降、二軍落ちを何度も経験し、チームもパ・リーグ3年連続最下位に終わる。9月には球団から戦力外を通告され、一時は引退も考えたが、高校の先輩である巨人・工藤の勧めなどもあり、現役続行を決意。12月11日、新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスと契約する。


《東北楽天時代》
■オリックスから戦力外通告を受けた山崎は2005年に東北楽天入り。背番号は自らの娘の名前に因んで7をもらった。この年、楽天は50年ぶりの新規参入球団としてパ・リーグに参戦、田尾安志がチームの初代監督を務めた。3月26日球団史上初の公式戦である千葉ロッテマリーンズとの開幕戦(千葉マリンスタジアム)では「5番・指名打者」で先発出場。開幕直後は右手に死球を受けて負傷し、二軍で治療に専念するなどあまり活躍できなかったが、この年から始まったセ・パ交流戦に入ると調子を上げ、5月7日の巨人2回戦(フルキャストスタジアム宮城)で9回裏に中日時代の同僚前田幸長から球団史上初の代打本塁打を記録。6月初めから4試合連続の5本塁打を放つ。交流戦後は「4番・指名打者」として定着するようになる。7月2日の対日本ハム6回戦(フルスタ宮城)において、3回裏に江尻慎太郎よりレフト前ヒットを放ち、プロ入り通算1000本安打を達成する。通算1000安打達成はプロ野球史上234人目。プロ19年目での達成は稀有のスロー記録。事実上、楽天の初代4番としてのシーズンとなった(実際は第5代にあたる)。7月27日の対日本ハム戦の試合前に仙台市内の小学校を訪問。子供達に「ホームランを打つ」と約束して臨んだこの日の試合で満塁ホームランを放ち、子供達との約束を果たした。この年、チームはダントツの最下位に終わったが、チーム最多となる25本塁打を放って4番としての役割を十分に果たした。

■プロ20年目を迎える2006年は新監督・野村克也からチームの主軸として、またチームリーダーとして期待される。6月17日の対巨人戦(東京ドーム)において高校の先輩である工藤公康から二打席連続本塁打を放ったり(2005年には工藤のノーヒットノーランを阻止する安打を放っている)、7月29日には楽天初となる逆転満塁ホームランを放った。8月5日、史上49人目となる通算250本塁打を達成。プロ20年目で到達した山崎は「開幕から1つの小さな目標としてきたので、達成できてうれしいです」と喜びを語った。

■野村は山崎の野球への取り組みを高く評価。春先には「山崎は一生懸命やってても一生懸命やってるように見えない(損な奴やな)」と語った。また、楽天のルーキー山崎隆広は、内角のさばき方の手本として阪神の今岡を挙げると、野村は「天才の真似はできないからするな。苦労してつくった人の真似をせい」と「努力型」の例としてまっさきに山崎武司の名を挙げた。シーズン中には、山崎が変化球に倒れ凡退すると「もっとうぬぼれろ!お前にストレートが来るわけないだろ!」と激励するなど、ベテラン和製大砲に全面的な信頼を寄せている。また山ア自身も野村の野球観に心酔。「この年になって毎日が新たな発見」と探究心に余念がなく、お互いに密接な関係を築きつつある。

■今やチームの精神的支柱として欠かせない存在となっている。入団以来連敗が続いていた松崎伸吾に対し「オレはお前みたいなピッチャーを見たことがある。何の変哲もなかったけど、努力して球界を代表する投手になった」と、同じ左腕投手である野口茂樹(現読売ジャイアンツ)を引き合いに出して激励したり、捕手の嶋基宏がミスして負けた時にも「お前のせいで負けたんやぞ」と言いながら、安打が出ないと「もっと打席でバットを振れ」とフォローしたりしている。

■東北楽天に入団してから、読売ジャイアンツ(2005年はオリックス・バファローズ所属)の投手であるジェレミー・パウエルとは2年連続で手に死球を与えられて負傷してしまったという因縁があり、2006年の死球の際には山崎がパウエルに向かって「これで2回目だぞ!」という意味を込めて指を2本立てながら絶叫し、マウンドに詰め寄ろうとしてあわや乱闘の騒ぎになった。また2007年4月25日のオリックス戦でランス・カーターから死球を受けた際は、それまでの経緯(楽天の投手2人がグレッグ・ラロッカに2度死球を与え、オリックス投手の吉井理人がケビン・ウィットに対して威嚇ともとれる頭部付近への投球を行った)から山崎は報復と思い、マウンドに詰め寄ろうとした。そしてそれを止めようとした日高剛のマスクをはたき落としたため、両軍入り乱れる乱闘騒ぎとなった。その騒ぎの中でオリックス所属のタフィ・ローズが山崎を小突いたとして退場が宣告されたが、日高のマスクをはたき落とした山崎については審判が見ていなかったということで何ら処罰を受けなかった。仮に目撃していたら退場にしていたと永見武司球審は語っている。

■2007年4月1日、対オリックス・バファローズ戦(フルキャストスタジアム宮城)で吉井理人から1イニング2本目となる満塁本塁打を放った(1本目はホセ・フェルナンデスの満塁本塁打)。1イニング2満塁本塁打はセ・パ両リーグ合わせて史上3度目、パ・リーグでは1999年8月20日に秋山幸二、小久保裕紀が記録して以来の出来事である。また、小久保の本塁打はランニングホームランであったため、2本の柵越え満塁本塁打としてはパ・リーグ史上初となる。

■2007年5月、パ・リーグ野手の月間MVPを獲得。月間MVP獲得はチーム発足後初であり、自身も中日時代の1996年6月以来の10年11ヶ月ぶりであり、これはプロ野球史上最長のブランクとなる。

■2007年6月14日、通算1500試合出場達成。1500試合出場は史上152人目。

■2007年のガリバーオールスターゲームでは指名打者として最多得票を獲得した。そして迎えたフルキャストスタジアム宮城での第二戦では第一打席に先制の2ランホームランを放つと、第二打席でも二塁打を放ち、優秀賞、ガリバー賞(2試合通して最も印象に残った選手を顕彰)を獲得した。

■2007年はハイペースでホームランを量産しているが、統計によると第2打席でのホームランが多い事が明らかになった。現在は、タフィ・ローズと激しいタイトル争いを演じている。

■2007年8月27日には本拠地フルキャストスタジアム宮城でこの日誕生日を迎えた愛娘の前で、39号2ラン・40号3ランを放ちプロ21年目にして初めて40本の大台に乗せた。


【エピソード】
《野球関係》
■中学野球では本塁打を1本も打っていない。

■ドラフトの際、実は読売ジャイアンツに入りたかった(同い年で同期の巨人の選手は木田優夫、緒方耕一)と語っている。

■アメリカで教育リーグに参加していた際、3打席連続本塁打を放ち、相手チームの監督からメジャーリーグを目指してアメリカでプレーするよう誘われた。

■1996年に本塁打王のタイトルを獲得した際、本塁打を打つたびに貰えるドアラ人形を生まれたばかりの長男にプレゼントしていた。

■1999年、5月20日まで「山崎武司」の登録名だったが、5月21日現在の名前(山ア武司)に改名した。理由は、5月20日の横浜戦でそのシーズン初めて途中交代と言う屈辱を味わい、試合後の夕食会場で隅っこで食事をしていたところ、中日の佐藤球団社長(当時)に「君はいい選手だよ。だから、もっと自己主張しなさい」と諭され、さらに「ところでやまさきとやまざきどっちかね」と言う話になる。山崎は「やまさきです」と答え、さらに戸籍上では山アであると説明した。さらに、長男が生まれた際、姓名判断によるとその名前は1画足りないということだったが戸籍の名字なら1画増えてちょうどいいと話した。すると、佐藤球団社長が「自己主張のため君も1画増やしなさい」ということで改名がその場で決定。21日昼間に中日球団が連盟に変更を申し入れ受理されると、山崎はその日のヤクルト戦で2回裏に10号2ランを放っており、改名効果を見せ付けている。

■中日監督時代の山田久志、オリックス監督時代の石毛宏典にキャンプで三塁手の練習をさせられたが、いずれも短期間で断念している。

■2001年、2002年には、山崎賢太が中日のチームメイトであったため、スコアボードなどに「山ア武」と表記されていた。2006年からは楽天でも同姓の山崎隆広がチームメイトとなり、同様の表記がなされている。

■「狭い球場が好き」と公言している。特にヤクルトの本拠地である明治神宮野球場が好きである。

■現在の東北楽天の背番号「7」は娘の名前(なな)よりとったもの。この際、オリックスから分配ドラフトで移籍した竜太郎も心機一転を期して7番を希望したが、結局球団は山崎に与え、竜太郎には「実力で奪い取れ」と奮起を促した。

■やや激昂しやすい性格で、死球を受けて投手の所に詰めよったり、審判の判定に不服を持って抗議をしたが暴言を吐き、または侮辱をして退場などということが度々ある。また乱闘になると自分より身体の大きな外国人選手にも平気で向かっていってしまう。

■2007年開幕戦(対西武ライオンズ、於グッドウィルドーム)では、ホセ・フェルナンデスが夫人出産によりチームを一時離脱していたことから、開幕4番として出場。また、一週間後の3月31日のホーム開幕戦(対オリックス・バファローズ、於(フルキャストスタジアム宮城)でも、フェルナンデスが胃腸炎で欠場したことから4番で出場する。しかし、ここまで一週間不調が続いており、結果が残せなかったことから、翌4月1日(同じくオリックス戦)では一気に8番に降格されてしまう。しかし3回、得意とする吉井理人投手から先頭打者としてヒットで出塁すると、4番フェルナンデスの満塁ホームランで得点。さらに、5〜7番が立て続けに出塁したことで満塁の状態で再び山崎に打席が回る。ここで山崎は満塁ホームランを打ち、これが1イニング中2発目の満塁ホームランとなった。ちなみに1イニング2満塁本塁打は史上3度目。

■2007年4月7日、四死球0の状態で犠牲フライを放つなどした関係で、出塁率が打率を下回るという珍事が起きた。また、シーズン開幕1ヶ月間程は安打の半分が本塁打という「ホームランか三振か」状態で、打率は規定打席到達者内で最低ながら本塁打数は1位という時もあった。

■2007年は開幕から好調で、5月27日の横浜戦で両リーグ最速で20号に到達。場外本塁打となって、横浜スタジアムの外の露天の商品に命中。ただし店主は、「長いことやってきたけど、場外ホームランが飛んできたのは初めて。私は運が良いよ。」と喜んでいたという。


《相撲関係》
■八幡中時代は野球部のほか、相撲部でも活躍した。野球では地方大会止まりだったが、相撲では全国大会にも出場し、藤島部屋からスカウトもされた。

■1997年のシーズンオフ、正月番組『プロ野球オールスタースポーツフェスティバル』の相撲競技で優勝。当時巨人の松井秀喜とも対戦。

■1998年のシーズンオフ、正月番組『プロ野球オールスタースポーツフェスティバル』の相撲競技で2年連続優勝。しかし、取組相手であった日本ハムの片岡篤史が右肩脱臼の重傷を負ってしまい、これ以降、プロ野球選手の相撲競技は行われなくなった。

■元前頭筆頭・朝乃若(現・若松親方)は、愛工大高校の1年後輩で親しい。また、元十両2枚目・須佐の湖は八幡中学校の後輩で幼なじみでもある。


《趣味など》
■子供の頃は競輪選手になりたかった。

■1990年12月19日、実家近くで火事の現場に遭遇した際、知人らと協力して炎の中から子供を助け出し、地元消防署から表彰された。このことは、セリーグからも特別表彰を受けた。

■愛車はフェラーリ、メルセデス・ベンツ。2007年にこのうちのフェラーリ・F512Mを楽天オークションに出展。1450万999円で落札されるも、落札者が直後にオークション会員を退会して連絡が取れなくなってしまい、オークション不成立となってしまった。

■趣味はミニカー収集で自宅には3000台ものミニカーがあるという。ラジコンカーも大好きで、中日の山本昌とラジコンカーレース大会『山山杯』を毎年開催している。

■毎年10着のスーツをオーダーメードで新調する。若手選手のファッションに苦言を呈するなど、球界のファッションリーダーを自認している。

■その風貌と性格、「たけし」という名前から、アニメ『ドラえもん』のキャラクターである「ジャイアン」と呼ばれる。これは中日・楽天でチームメイトであった中村武志と区別する意味合いもある。しかしインタビューの受け答えなどは割と丁寧で、声なども優しい声である。

■好物はエビフライ。山崎がプロデュースして2006年8月5日に発売された「どえりゃー山崎弁当」には、山崎のとにかく大きなエビフライが目立つ豪快な弁当にという強い希望に応えて、大海老を頭から丸ごと使った大きなエビフライが入っていた。なお、この弁当は豪快さを売りにする山崎らしくエビフライには大きな有頭エビを使用するなど、関係者によると「1,000円で売り出しているけど、実質は1,500円ぐらいかかっている」という逸品で、「間違いなく売り上げはNo.1」と飛ぶように売れている。好評を受け、2007年8月27日には「山崎でらうまカレー」をプロデュースするが、こちらにも約18cmの巨大エビフライが入っている。

(出典:Wikipedia)

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