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坂田 亘(総合格闘家)

坂田 亘(さかた わたる、1973年3月11日 - )は、日本の男子プロレスラー、総合格闘家。愛知県中島郡祖父江町(現在の稲沢市)出身。妻はタレントの小池栄子。


【経歴】
高校時代に極真空手を経験、卒業後にアニマル浜口道場に入門。

1993年にリングスに入団。1994年11月19日に鶴巻伸洋相手にデビュー戦を行った。デビューからしばらくは同期の高阪剛の陰に隠れて目立たない存在であり、1995年の鹿児島大会のバックステージで「不甲斐ない試合をした」と前田日明から制裁を受けたエピソードがある。

1996年にUWFインターナショナルより移籍してきた田村潔司に師事してからは見違えたように技術の向上を見せ、以前は苦杯を舐めたウイリー・ピータースを問題にせず一蹴するなど成長の跡を見せた。リングスとパンクラスのトラブル時には「俺が前田さんを守る」と発言。1999年にはバーリトゥードにチャレンジ(ジアン・アルバレスに敗退)。

リングスには2001年6月10日まで所属。同団体に在籍中はネットワーク所属選手以外にヘンゾ・グレイシー、ブランドン・リー・ヒンクル、デイブ・メネーらと対戦経験がある。

同年7月に坂田道場設立とともにEVOLUTIONを結成。総合格闘技へ本格的に進出を開始し、DEEP、LEGEND、U-STYLE、PRIDEへ登場した。DEEP初参戦時にはパンクラス所属の窪田幸生をTKOで下し、リングス-パンクラス間のトラブルを招いた鈴木みのるを挑発。この時期にはマリオ・スペーヒー、ダニエル・グレイシーなどとの対戦経験がある。

プロレスラーとしての活動は、ZERO-ONE、ZERO1-MAXを経てハッスルを活動の中心としている。ハッスルでは当初「ハッスル王子(プリンス)」のニックネームでハッスル軍に属していたが、ハッスル・ハウス4を直前に控えた2005年1月末にハッスル軍を離脱しヒールターンを果たす。それと同時に高田モンスター軍への入団を企てるが、ハッスル7(2005年2月11日 愛知県体育館)での入団査定試合に敗れ失敗。

その後ハッスル・ハウス6(2005年3月19日 グランシップ静岡)でハッスル軍、モンスター軍のどちらにも属さずにやっていくと宣言、結果独自行動の坂田軍として活動することとなった。

まずハッスル9(2005年5月10日 新潟市体育館)で村浜武洋と兄弟の杯を交わし、続いてモンスター軍を追放されていたマーク・コールマンと合流。ハッスル・ハウス クリスマスSP(2005年12月24日 後楽園ホール)からは、同じくハッスル軍を離脱した崔領二も傘下に加え、一勢力としての地位を築きつつある。

またハッスル・ハウス11では鈴木浩子GM(当時)に叱責された青木裕子を救出、坂田軍のマネージャーに登用。ハッスル15(2006年3月12日 愛知県体育館)ではシングルマッチの激闘の末に互いを認め合った天龍源一郎に対し、坂田軍の叔父貴(おじき)となる事を要請。天龍も「そんな話は大きなオッパイのおねえちゃんのいる酒の席で話せ」とまんざらでもない様子であった。しかし、ハッスルハウスvol.17で開かれたハッスル・キングメモリアル6人タッグトーナメントでの敗戦後、急速にその関係は悪化、ハッスルハウスvol.19で天龍がモンスター軍に付いた事で完全に絶縁することになった。 その後ハッスルハウスvol.20において行われたGM総選挙において、RGを破り当選し、新しいGMとなった。ちなみにこの後RGも坂田軍に加入している。

ハッスルマニア2006を機に坂田軍は「世界一性格の悪い男」で有名な鈴木みのるとNOSAWA論外、MAZADAの東京愚連隊という鈴木軍との新たな因縁関係が勃発した。 2007年には小川や大谷などの主力を欠いた新生ハッスル軍に助太刀する形で再び加入、現在はHGと共に新生ハッスル軍の中心人物として活躍している。

2007年8月29日にタレントの小池栄子と入籍した。小池栄子との出会いのきっかけは今は亡き橋本真也の紹介だといわれている。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070830-00000011-oric-ent

朝青龍(相撲・横綱)

朝青龍 明徳(あさしょうりゅう あきのり、昭和55年(1980年)9月27日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身の力士で、第68代横綱。本名Долгорсүрэнгийн Дагвадорж(Dolgorsuren Dagvadorj;ドルゴルスレン・ダグワドルジ)。高砂部屋(入門時は若松部屋)所属。愛称はドルジ。身長184cm、体重148kg。

得意技は左四つ、寄り、突っ張り、星座は天秤座、血液型はO型、趣味は音楽鑑賞。特技は乗馬。

次兄のドルゴルスレン・スミヤバザルはブフ(モンゴル相撲)のアヴァルガ(モンゴル横綱)、三兄のセルジブデはリングネーム「ブルー・ウルフ」のプロレスラー(新日本プロレスに所属していた)。


【来歴】
■相撲勘が非常に良く、相手に応じて寄り、投げ、突き押し、足技などを繰り出す。足腰が強靱。

■1995年、15歳のとき、ブフ(モンゴル相撲)を始め、ナーダムの相撲少年の部で優勝した。

■1997年に朝赤龍とともに日本の明徳義塾高校に相撲留学し、2年後に退学して角界に入門した(後に卒業が認められた)。

■2001年に新入幕し、翌年9月にモンゴル出身の力士として初めて大関に昇進し、同年11月場所、翌年1月場所に連続優勝して場所後に第68代横綱に昇進。

■2003年11月場所に第67代横綱武蔵丸が引退した翌年の3月場所から2007年7月場所に白鵬が第69代横綱に昇進する前の5月場所までの約3年半(21場所)の間、朝青龍は一人横綱を務めた。これは史上最長の期間である。

■2004年1月場所・3月場所で、2場所連続全勝優勝(30連勝)を果たした。5月場所は、今まで実績のあまりなかった北勝力の大活躍で苦しい展開であったが、優勝決定戦で下して優勝。7月場所も13勝2敗で優勝。1996年の貴乃花以来である、4場所連続優勝。

■2005年11月場所では、2004年11月場所からの7場所連続優勝(従来は大鵬が2度記録した6場所連続優勝)、2005年の年6場所全制覇(従来は
1966年の大鵬、1978年の北の湖、1986年の千代の富士の年5場所)、年間成績84勝6敗(従来は1978年の北の湖の82勝8敗)と、3つの記録を更新した。

■2006年1月場所14日目、自身は新大関琴欧州に勝ち11勝3敗としたものの、この日同じく勝った大関栃東が13勝とし星2つの差となったため、この時点で優勝が消滅、自身が持つ連覇記録は7で止まった。

■2007年1月場所において、14日目に大関栃東をつり出しで下し、20度目の幕内最高優勝を果たし、大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花に続く大台に到達した。また、20回以上の優勝は外国人力士では初の快挙となった。

■翌3月場所は初日時天空、2日目雅山に連敗を喫した。初日からの2連敗は小結だった2001年7月以来であり、横綱昇進後初めての出来事である。しかしその後はその連敗を忘れさせるように連勝し、14日目にはそれまで1敗で優勝争いのトップに立っていた白鵬に勝ち、自らも優勝争いのトップに立った。両者は千秋楽の優勝決定戦で再び戦ったが、この時は白鵬のはたき込みに敗れ、優勝を逃した。

■2007年5月場所においては、12日目の千代大海戦、13日目の魁皇戦で自身2度目の連敗を喫し、この時点で3敗に後退。2002年11月場所の初優勝以来初めて2場所連続で優勝を逃した。さらに、14日目には琴欧洲にもあっけなく上手を取られて投げつけられた。千秋楽には白鵬相手に大相撲を取るも敗れ、大関戦4連敗を喫した。4連敗は、9勝6敗に終わった2004年9月以来2度目。対大関3連敗及び4連敗に限れば、横綱昇進以来初めての事である。


【旭鷲山との因縁】
2003年5月場所、同郷の先輩力士の旭鷲山との対戦で土俵際で逆転負けした時、土俵上で物言いを要求する態度を見せて物議を醸した。

2003年7月場所、旭鷲山との対戦でマゲを掴み反則負けとなる。取組後の風呂場で両者は激しい口論となり、そこに居合わせた大関魁皇が割って入り止めたという。怒りが収まらない朝青龍は、旭鷲山の車のサイドミラーを壊して弁償する騒動にまで発展した。力士の乗る車のドアミラーを損傷させるなど横綱にあるまじき行動だと日本相撲協会や横綱審議委員会から苦言を呈された。

なお、現在は和解していると報道されている。


【八百長疑惑】
2007年1月22日発売の週刊現代(講談社)に「横綱 朝青龍の八百長を告発する!」と題された記事が掲載されることが明らかになった。朝青龍が全勝した昨年九州場所を検証し、15番中ガチンコ(真剣勝負)が4番と指摘しているもの。[2]

記事に関し、北の湖理事長(元横綱)は「まだ何も分からない。コメントできないよ」と困惑の様子。朝青龍の師匠・高砂広報部長(元大関・朝潮)も「答えようがない。そういうことはないと思っている」と疑惑を否定した。また記事中で仲介役とされる旭天山の師匠・大島親方(元大関・旭國)は「誤解を招くようなことはすべきでない」と激怒し、旭天山を直接注意した。[3]

なお、朝青龍自身も八百長疑惑を全面的に否定しており、悪役扱いに既に慣れている朝青龍も今回ばかりは「強くなるのがそんなに悪いことなのかよ〜」と、ぷんぷん怒っていた様子であったと言う。1月30日には日本相撲協会に事情を説明したあと報道陣に「せっかく20回目の優勝をしたのに、あんなことを書かれて、つらかった。悲しすぎる」と語り、場合によっては訴訟を起こす可能性も示したが、日本相撲協会は朝青龍を相撲に専念させるためにも、朝青龍自身が法的措置を取ることを回避させ、日本相撲協会が講談社と記事を書いた人間を相手に告訴することを決定した。


【取り口】
■立ち合いに鋭く突っ込んで先手を奪い、常に先に技を出して相手に相撲を取らせないのが必勝パターンである。しかし、2006年以降は立ち合いがやや鈍り、後手に回る相撲も見られるようになっている。

■根は左四つだが、右四つでも充分力を発揮する。投げは左右共に強く、上手投げ、下手投げ、すくい投げに小手投げとなんでもこなす。特に右からの投げは切れ味抜群で、廻しの引き付けも強いとされる。また、突っ張りもあり、足技も得意。守れば強靭な足腰を持つオールラウンダー型である。

■もともともろ差しを得意の形としていた。だがそれはどの力士にとっても優位な形であると言えるので、彼の得意な形とは称しにくい。ただもろ差しを果たすスピード、巻き替えの速さは大きな特徴。ただ昔に比べると「朝青龍にもろ差しをされたら一巻の終わりだ」と他の力士の警戒も高まり、最近ではもろ差しを果たして勝つことはほとんどない。朝青龍ももろ差しに以前ほどこだわってはいない。

■元大関・栃東とは対戦成績が拮抗していて、通算成績は朝青龍の15勝10敗だったが、一時は栃東が朝青龍に勝ち越していたこともあった。

■逆に、琴光喜、魁皇、千代大海、琴欧洲、雅山には相性がいい。特に琴光喜とは大関昇進を争った仲で、昔は琴光喜が6勝3敗と勝っていたが、その後朝青龍が26連勝して現在は29勝6敗と大きく水をあけている。魁皇には2004年11月場所に敗れ、9勝9敗と相性がやや悪かったが、その後8連勝した。雅山にも2007年1月場所まで13連勝するなど26勝3敗と手玉に取っている。しかし、魁皇には2007年5月場所、雅山には2007年3月場所に敗れており、連勝は止まったが、対戦成績は依然朝青龍がリードしている。

■朝青龍の負け取組の決まり手は、寄り倒しや押し倒しによる負けがかなり多く占めている。その一方で寄り切りなどの負けは少なく、彼の下半身が強靭である事を裏付ける説でもある。

■土俵入りにおいては足の動きに特徴があり、NHKの大相撲放送でも度々、砂を噛むように動く足が映される。

■気合満点の表情で仕切るにも関わらず、いざ相撲が始まると極めて冷静に、計算高く事を運ぶ。研究心が旺盛で、相手十分の体勢には滅多にさせず、勝利に拘った相撲を取る。しかし、自分の計算どおりに進まなかった場合、顔を張られた場合など朝青龍にとって不慮の事態が起こった場合には、カッとなって下半身もおろそかに強引な張り手を連発する悪癖もある。

■2004年9月場所、2007年5月場所のように、優勝の可能性がなくなると力を抜く傾向がある。


【その他】
■朝青龍という四股名は、出身校である明徳義塾高等学校の近くにある四国霊場36番札所青龍寺にちなみ、下の明徳の名は同校にちなんで名づけられた。

■高校時代は「ダシバドリ」とも表記された。

■明徳義塾高校を2年で退学しているため、当初は中退扱いであったが、文部科学省の規定でモンゴルの高校での単位が認められたため、卒業が認められ、2003年9月24日に卒業証書を受け取った。

■2003年に結婚。またこの年、長女が誕生。2004年8月には故郷モンゴルで披露宴を挙行したが、同月日本でも日本式で盛大に行われ、テレビ中継も行われた。

■貴乃花との対戦は、貴乃花の怪我による長期休場のためわずか2回しかなく、朝青龍の2戦2敗に終わっている。朝青龍が新大関として臨み、最後の対戦となった2002年9月場所では、善戦するも敗れ、対戦終了後に花道を引き上げる際に「畜生!」と大きな声で叫んでしまい、その後に支度部屋で「(対戦で貴乃花の)怪我している足を蹴っ飛ばしておけばよかった」と発言し、非難を浴びるという出来事があった。

■2003年6月19日、麗澤大学へモンゴルからの留学生を受け入れるための「朝青龍奨学生制度」を発足。朝青龍の母校である明徳義塾高校校長の吉田圭一は、同学の出身。朝青龍は渡航費用を負担。

■2004年3月場所終了後の春巡業で、一門の枠を超え、モンゴル出身力士を集めて特別指導を実施した。この結果モンゴル出身力士の結束は深まり、白鵬、安馬らは部屋、一門が異なるにもかかわらず「援護射撃」を口にするようになった。また、安馬とは場所中に何度も夜の街へ繰り出す程の仲である。

■人気が上昇するにつれてテレビコマーシャルに出演することが多くなった。また祖国モンゴルでは2005年のモンゴル国大統領選挙に際して、同郷力士と共にナンバリーン・エンフバヤルを支持するテレビコマーシャルに出演した。

■2005年4月、明徳義塾高校へモンゴルの子供を留学させるための「朝青龍明徳教育基金」を設立。スポーツ留学に限らず、人選は朝青龍に一任されており、渡航費や生活費用等、年間約150万円を負担。

■2005年7月15日、高知県庁より、広末涼子と共に『高知県観光親善大使』に任命される。師匠である高砂と師弟二代で高知県の観光親善大使を務める。

■2005年12月8日、モンゴルのエンフバヤル大統領を表敬訪問した際に、モンゴルの英雄の名前を冠したスフバートル勲章が贈られた。

■横綱が平幕力士に金星を献上すると座布団が乱舞するのは、以前から良く見られたが、全盛期の朝青龍の場合は負けた相手が大関であっても座布団が飛ぶ。これは、朝青龍の強さが圧倒的であるためと思われる。

■高知新聞では、郷土出身力士として扱っている。

■2007年1月1日 元日放送のプロスポーツマンNo.1決定戦(TBS系列)のパワーバトル部門に出場。SPIN OFFで大関琴欧洲、THE-TAG OF WARで関脇琴光喜に惜しくも決勝で敗れるも、THE GALLON THROWで佐々木健介と共にNo.1にランクイン、得点で総合No.1となった。

■懸賞金を貰った後にカメラ目線で、カメラを睨む癖がある。仕切り前にも花道を睨むことがある。理由は、テレビを見ている妻への愛情をこめて目を向けているということもあるが、視聴者の中にはこの睨みを嫌う者もいる。


【朝青龍への批判】
■自分が勝ち続けている内は気分が良く取組直後の自分が負かした相手に手を貸したり、インタビューに穏便に答え舌先も滑らかであったが、自分が負けたりすると相手の手を強引にふりほどいたり気分で自分の態度が変わってしまう。

■かつては懸賞を受け取るとき左手で手刀を切るなど土俵上の礼儀・作法が問題になった。

■2003年10月、病気を理由に稽古総見を休むなどし、11月場所後に高砂親方に内緒でモンゴルに帰国をした。親方には風邪をひいたと説明していたが、帰国の翌日の日本のスポーツ誌にアントニオ猪木と握手している写真が掲載され、親方が驚いた。日本で大騒ぎになったが、猪木のパフォーマンスの一環である。このとき着物姿でなくスーツ姿であったことが横綱審議委員から問題視され、高砂親方も注意したい旨の発言を行う。しかしながら、現役力士は着物以外禁止という内規は特になく、高度成長時代には力士のスーツ姿が雑誌に掲載されていた程である。

■横綱としての実績が高くなるにつれ、次第に常に挑戦者と思って相撲を取る謙虚かつ油断のない姿勢や、本割で負けた相手には特に集中して稽古相手に指定するという負けず嫌いに立脚する向上心が、関係者に高く評価されるようにもなってきており、最近は横綱審議委員会から絶賛を受けるまでになっている。

■平成17年正月に放送された「志村・鶴瓶のお正月芸能人交流スペシャル」(テレ朝)にて、高砂部屋に来ていた外国人の子供達と稽古をして、その後、子供達とハイタッチを交わしていたが一番最後の太った子供だけはハイタッチせずに頭を叩いた。

■平成17年5月30日に亡くなった故・二子山親方(元大関:貴ノ花)の協会葬の時、ハワイに行って出席しなかった。

■2006年からは毎場所のように稽古不足が指摘されている。

■ムキになると過剰な押し出しなどをする。

■横綱昇進後は完全なヒール役となっており、週刊誌に「女性が嫌いなスポーツ選手」で堂々の1位に輝いたこともあった。これは旭鷲山戦で見せた醜態等彼の土俵態度が影響していると見られる。最近はやや丸くなり、横綱として十分な実績を残している事から、以前よりは嫌われなくなった。だからと言って人気力士の部類に入るわけでもなく、かつての北の湖と同じように負ければ館内は狂喜乱舞する。

■2006年11月場所8日目、前場所で敗れた稀勢の里に蹴手繰りを食らわせ、その場所で全勝優勝しながら場所後の横綱審議委員会で非難の声が続出。北の湖理事長も「横綱がやるような技じゃない」批判した。

■2007年5月場所、安美錦に負けて座布団を投げつけられたとき、花道で座布団に向かって蹴りを見舞った上、さらにテレビカメラに向かって怒りを露わにしてカメラ目線で吼えたシーンが全国に写された。


【出稽古に対する批判】
また、本割で負けた相手や力のある若手力士(モンゴル人を除く)を、その後の出稽古で対戦相手に指名し激しい稽古をしている。

標的となった力士は高見盛(右肩亜脱臼により医者から「完治しない」と診断される)、琴欧洲、稀勢の里、北勝力、千代白鵬、白乃波(稽古中に失神させられ古傷の首と膝を負傷)、琴奨菊(通常は5〜6番で済まされるぶつかり稽古を20回近く行う。稽古中うずくまっていた所を引き起こし、竹刀で尻を叩く。この後腰を痛めその場所負け越し)など多数。東関親方は高見盛が故障した際、高砂部屋への出稽古の中止を宣言した程だ。また横綱昇進前ではあるが武雄山も朝青龍との稽古で右膝を負傷している。

これらの力士に避けられると持病に腰痛を抱える兄弟子の元小結闘牙に対して吊り落としを見舞い、腰痛を悪化させた。彼は吊り落とされた直後の2004年11月場所2勝13敗と大敗し十両に陥落、翌2005年も腰の状態が思わしくなく不振が続いた(十両優勝した九州場所も腰の状態は万全には程遠かった)。さらに2006年1月場所を休場し(途中から出場して4勝)、翌3月場所も初日からの7連敗もあって僅か2勝13敗と振るわず、翌5月場所に西幕下5枚目に陥落し、5月5日に引退を表明した。


《2007年4月30日の出稽古》
さらに2007年4月30日、時津風部屋へ出げいこを行った際、新小結豊ノ島にプロレスまがいの技を仕掛け、右ひざと足首のじん帯損傷の怪我(全治2週間)を負わせた。その後、豊ノ島は5月場所に強行出場。朝青龍との取り組みが初日に組まれたが、このときは立会いすぐに豊ノ島が腰から落ち、朝青龍が勝っている。

この事態が起こった際日刊スポーツ紙上で納谷幸喜(元横綱大鵬)から「横綱の稽古というものが分かっているのか。相手を痛めつけ、恐怖感を与えるのは間違いだ。故意ではなくても、プロレスまがいの技でケガをさせるのは、もってのほかだ。稽古にもルールがあることを忘れないでほしい」と苦言を呈された。また豊ノ島の師匠時津風親方は「豊ノ島を強くしようという稽古じゃなく、壊してやろうという感じだった」「過去の横綱で壊すことをする人はいませんでした。情けない」と苦言。さらに「みんな来るのを嫌がるんじゃないですか」と各部屋で出稽古を拒否する動きに発展することを示唆した。さらに朝青龍の行動に対し日本相撲協会には抗議の電話が殺到した。

また朝青龍は豊ノ島に「残ろうとしすぎだよ」と言った一方、後日高砂親方に注意されると「向こうが力を抜くので、流れでそうなりました。気をつけます」と謝るなど、完全に矛盾する発言をしている。また報知新聞の記者には「何だ?なんだ?じゃあな!」と吠えたり、日刊スポーツ記者には「俺は先場所(八百長騒動で)いじめられたから、そのお返しをしたまでだ」と、稽古という名の八つ当たりを決行したと言ってもよい。

6日に時津風親方が、2日に9部屋からなる時津風一門(荒汐部屋・伊勢ノ海部屋・井筒部屋・鏡山部屋・式秀部屋・錣山部屋・時津風部屋・陸奥部屋・湊部屋)として伊勢ノ海親方が高砂部屋に朝青龍の稽古内容を改めるよう抗議したことを明らかにした。しかしながらこの時点では高砂親方・朝青龍自身から謝罪がなく、時津風親方はこのまま再び出稽古に来て「あの内容の稽古を繰り返せば帰ってくれと言う」と激怒していた。

高砂部屋に所属する現役最年長の序二段力士、一ノ矢充は自らが管理する高砂部屋公式サイト上の日記で「怪我は99%が自分の体の使い方の間違い、未熟さによるものである(中略)相手のせいではないのである。」としている。また、豊ノ島自身もブログ上で「稽古場での事故」としている。その後高砂親方からも謝罪があり、時津風親方は朝青龍が態度を改めれば問題視しないとし、今回の件は沈静化しつつある。


《出稽古の意義》
高見盛の故障時から前述の東関親方を始め一部の間で朝青龍の危険性は指摘されていた。しかし当時各スポーツ紙ではそのキャラクターから高見盛を揶揄するかのような報道がなされ、右肩亜脱臼という事実はそれから2ヵ月後に一部スポーツ紙で報じられたのみであった。豊ノ島の故障により、4年近くを経てその危険性が表面化したことになる。

出稽古で先場所に負けた相手ととことん申し合いをして痛めつけ、相手に恐怖心を与えるというのはある意味心理的な作戦であり、千代の富士(現九重親方)など歴代の名横綱が行っていることである。下位力士に横綱の強さを徹底的に刷り込むと共に若手力士の弱点を探るという効果がある。一方出稽古を受け入れる側には横綱のような強い力士と実戦的な稽古をできる利点がある。

ただ朝青龍の場合、精神面ばかりではなく、肉体的にも休場に追い込むほどの重傷を負わせており、結果的に取り組みとは無関係なところで後進の発展を阻む事態となっている。稽古相手の故障率の高さにおいて千代の富士らとは明らかに異なっており、豊ノ島の師匠である時津風親方は「朝青龍には、下の力士に稽古をつけてやる、という気持ちはない。若手を壊して恐怖感を与えることしか考えていないように見える。悪意に満ちた稽古だ。」と語っている。


【エピソード】
■幼少期から手のつけられない悪ガキだった。本人曰く「墨田区の番長のようなもの」*: (2007年1月7日日刊スポーツ、日曜日のヒーローにて)

■大相撲中継においては近年、「白崎義彦アナが実況すると、よく横綱朝青龍が敗れる」とファンの間で言われている。実際に白崎義彦アナウンサーがテレビ実況を担当した日に限ると、朝青龍が3連敗したこともあった。あの横綱の成績が白崎アナ実況時には通算で5割に近い勝率となっている。中には2004年5月場所で朝青龍の連勝記録が35でストップとなったテレビの実況も含まれている。

■明徳義塾高校時代、普天王、豊真将、白乃波と対戦しており、豊真将、白乃波には勝ったが普天王にはインターハイで敗れている。

■2004年5月場所は6日目(同年5月14日)に平幕の北勝力に敗れて連勝が止まり、最終的にこの場所は2敗となったが、千秋楽(5月23日)の
優勝決定戦で北勝力を破り、3場所連続優勝を達成した。優勝決定後、星1つの差で追っていた北勝力を本割で立ち合いの変化で破り「援護射撃」を果たした同じモンゴル出身の白鵬と握手し、部屋・一門を越えたモンゴル人同士の結びつきの強さを認識させた。

■優勝インタビューでは当意即妙な発言をすることで知られ、(風邪を引いた場所で)「白星が最高の薬」、(史上最高の懸賞が懸かった場所で)「ごっちゃんでした」、大阪で開催される3月場所では、千秋楽には「大阪、ありがとう!(2004年)」、「大阪の皆様、おおきに!(2005年)」、「まいど、大阪!(2006年)」と述べて、ファンを沸かせた。またインタビューの際に両手を挙げて一回転し観客の声援に応える光景はすっかりおなじみである。

■モンゴルに帰国中は強さを維持するために、いつもトレーニングを欠かさない。滞在中も毎日のようにジムに通う。一方の腕ずつ持ち上げるダンベルカールでは、トップボディービルダーでも難しいと言われる52.5kgを上げる。山崎泰央トレーナーが「反動もつけないで上げる。腕の力だけでなく体幹の力が強いんでしょう」と驚くほどのパワーを持っている。

■2005年3月場所の金色のまわしは話題になったが、13日目に大関・栃東に負けたことによって次の日14日目から黒のまわしに戻した。それについては本人曰く「金のまわしは伸びる」からだということ[5]。確かに栃東戦ではまわしが伸びていなければ勝っていたように解釈可能だが、取り直しの一番は完敗だった。(おっつけの強い相手と対戦するときに若干まわしをゆるめるのは武双山などがよく使った戦術でもある)

■2005年10月6日に、長男が誕生し、10月4日に渡米していたラスベガス巡業より帰国後、長男と初対面しての感想は「いいところの社長さんみたい」。

■高校野球強豪校の明徳義塾高等学校出身であるため、野球にも関心があり母校の応援を欠かさないのはもちろんのこと、ワールド・ベースボール・クラシックの準決勝・決勝を支度部屋でテレビ観戦し日本チームを応援していた。プロ野球は阪神タイガースの大ファン。

■2005年11月場所、朝青龍は前人未踏の七連覇、年間六場所制覇を達成した。この時横綱は涙を流しマスコミでは大記録達成の涙と報じられたが、後に横綱はそれを否定、「あの場所、地元福岡出身の大関魁皇を観客のほぼ全員が応援している中たった1人、自分を応援している1人のファンと偶然目が合い、そして勝った瞬間にまた目があった。その人が泣きながらすごく喜んでいるのを見て、思わず涙が出た」と語った。

■亀田興毅、細木数子、島田紳助、堀江貴文とも親交が深い。特に亀田との仲が良いらしく、2006年8月2日に行われた亀田の世界タイトルマッチ(詳細は亀田興毅のページを参照)の際には応援に駆けつけ、勝利を収め喜ぶ亀田を肩に乗せて祝福した。細木とも仲がよく、2005年11月場所では、細木のロールス・ロイスを借りて、それで場所入りした(過去に、輪島がリンカーン・コンチネンタルで場所入りしたことがあったが、ロールス・ロイスで場所入りする力士は史上初)。

■亀田以外でも格闘技の会場ではよく姿を見かける。引退したら格闘技界への進出も噂された。なお、兄2人が前述のとおり格闘家であることも噂の要因になりがちである。

■河島英五の「時代おくれ」を愛唱している。ORANGE RANGEの花もよく歌うらしい。

■2006年11月4日、広島県廿日市市宮島の大本山大聖院にて仏教行事に参加していたダライ・ラマ14世を九州場所前であったが訪問した。これはモンゴルがチベット仏教国であるためである。

■平成15年3月場所3日目に旭天鵬に敗れた後、腹癒せに大阪府立体育会館の空調設備を破壊した。

■リハビリの為モンゴルで合宿をしていた朝青龍は専属トレーナー山崎泰央と共にざんばら髪のポニーテールで成田空港降り立つ。協会より厳重注意(これと似た事件で、関取になりたての貴乃花が女性とデートしている所をフライデーに載せられ、師匠の二子山に「女と遊ぶなとは言わんが、力士らしい格好をしろ!」と大目玉を食らっている)。

■平成16年の7月場所後、高砂部屋で師匠の高砂親方と結婚披露宴の件で揉めた後に「朝潮のアホ〜!!」と暴言を吐き、大トラになった上に部屋の看板を足蹴りし、ドアを破壊しパトカーを呼ぶ騒ぎを起こす。この時、記者会見で泣きながら「もう、酒は飲みません」とコメント。

■琴欧洲には妙に嫉妬したような態度をとる事が多い。2006年1月場所前日、「あのヤローなんか目じゃねぇよ!俺は眠れる虎だ、見とけよ!」と暴言を吐いたり、琴欧洲のCM出演に「アイツばっか、何でCMに出るんだよ!アイツは大関で、俺は横綱なんだよ!」と激怒したりしている。しかし、琴欧洲が入門して間も無い頃は「日本語を覚えるにはカラオケに行ったらいい」とアドバイスをしている。

■彼が出演したCMは不思議と外れるジンクスがあり、2006年にNTTドコモのCMに出演した時は、2006年の携帯登録者数の首位と売り上げをauに初めて奪回された。また彼のCMは、すぐに打ち切り気味に見られなくなる特徴がある。

■2006年有馬記念のプレゼンターに登場する事が決まった際「私が好きな馬は風格があり、強さと気品があるディープインパクトです」とも言っている。

■稀勢の里に対して勝負がついたあとに膝蹴りを食らわし苦言を奏された。

■2007年5月場所千秋楽で白鵬に破れ彼の横綱昇進が確実になった際「土俵に上がったら、ただの人間になっちゃった」と、この日ばかりは弱気な発言もした。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070830-00000062-sph-spo

武豊(競馬・騎手)

武 豊(たけ ゆたか、1969年3月15日 - )は日本中央競馬会(JRA)の騎手。栗東所属で、現在はフリー(どこの厩舎にも所属していない。過去には武田作十郎厩舎に所属)。血液型O型、滋賀県栗東市出身(生まれは京都府)。京都市在住。

現在JRAのトップ騎手であり、数々の記録を持ち「天才」と呼ばれることも多い。競馬一家の出で、父・邦彦は「名人」の異名で知られる元騎手で現在調教師。弟・幸四郎も騎手である。この他、祖父は故・武芳彦馬主協会元会長であり、父の従兄弟に武宏平調教師、父の叔父に故・武平三元調教師や父の従兄弟に武永祥調教助手、その子ども(はとこ)に武英智騎手がおり、更に、父の従姉妹の夫に作田誠二調教師、父の従兄弟に武勇前武牧場代表がいる。妻は元アイドルの佐野量子。出自は鹿児島の武家(薩摩藩士)であるという。曽祖父武彦七の兄は明治・大正にかけての実業家・代議士の園田実徳で、その娘婿は西郷寅太郎で、その父は西郷隆盛である。身長170cm。体重51kg。


【来歴】
金勝小学校、栗東中学校、競馬学校(3期生)を経て1987年にデビュー(同期生に蛯名正義)。同年にトウカイローマンで京都大賞典に勝利すると、以来毎年重賞を勝ち続けている。GIでは、1988年に菊花賞で優勝したのを皮切りに、20年連続で、つまりデビュー初年度を除く全ての年でGI競走を制覇している。デビュー以来「競馬の祭典」と言われる東京優駿(日本ダービー)に勝つことができず、競馬界の七不思議の一つと言われたが、10年目の1998年にスペシャルウィークで初勝利し、同時に史上2人目の八大競走完全制覇を達成。翌年(1999年)もアドマイヤベガで制し、史上初の連覇を達成した。2005年までにタニノギムレットとディープインパクトで勝利し、通算4勝は中央競馬最多である。現在、日本を含め5ヶ国でG1を勝利している。

デビューした1987年と1991年、並びにフランスへ長期海外遠征を行った2001年を除き毎年コンスタントに年間100勝以上のペースで勝ち続け、2003年から年間200勝を3年連続で記録。また、1987年のデビューから毎年中央競馬の重賞レースを制している。さらに、デビュー翌年から毎年G1を勝利している。

2002年2月24日の中山競馬第3競走で落馬し、骨盤を骨折して全治3〜6ヶ月といわれた重傷を負ったが、わずか2ヵ月後の4月20日に復帰。その回復力は関係者やファンを驚かせた。それから1ヶ月後の5月26日には、この年の東京優駿(日本ダービー)をタニノギムレットで制して史上初の東京優駿(日本ダービー)3勝目を飾っている。

2007年3月25日現在で、JRAGI競走通算58勝。50勝目はディープインパクトが無敗でクラシック三冠を達成した2005年の菊花賞である。他に、地方交流GI競走を13勝、海外GI競走を7勝(いずれも2007年4月1日現在)。未勝利の国内平地GIおよびJpnIはヴィクトリアマイル(2006年に新設)、マイルチャンピオンシップ、朝日杯フューチュリティステークス(以上JRA主催分)、かしわ記念(2005年より統一GIに昇格し現・統一JpnI、船橋競馬場で開催。なお、統一GIII時代の1997年にバトルラインで優勝)の4競走のみである。


【成績・記録年表】
■1987年、栗東・武田作十郎厩舎所属でデビュー(同期に蛯名正義、塩村克己ら)。加賀武見(現調教師)の持っていた新人記録の58勝を上回る69勝を挙げた。

■1988年、史上最速・最年少(19歳1ヶ月)でJRA通算100勝達成。菊花賞でスーパークリークに騎乗し初GI勝利にして史上最年少(19歳8ヶ月)でクラシック制覇。

■1989年、史上最速・最年少(19歳11ヶ月)でJRA通算200勝達成、史上最速・最年少(20歳8ヶ月)でJRA通算300勝達成。

■1990年、史上最速・最年少(21歳5ヶ月)でJRA通算400勝達成。

■1991年、史上最速・最年少(22歳4ヶ月)でJRA通算500勝達成。アメリカ・サラトガ競馬場のセネカハンディキャップ(G3)でEl Senor(エルセニョール)に騎乗し、初めての海外グレード競走(およびグループ競走)制覇。

■1992年、武田作十郎調教師の定年による厩舎解散に伴い、フリー転向。天皇賞(春)でメジロマックイーンに騎乗し、史上初の同一競走4連覇を達成。史上最速・最年少(23歳9ヶ月)でJRA通算600勝達成。

■1993年、史上最速・最年少(24歳1ヶ月)でJRA通算700勝達成。桜花賞(ベガ)・皐月賞(ナリタタイシン)・優駿牝馬(ベガ)と春のクラシックを3連覇。

■1994年、史上最速・最年少(24歳10ヶ月)でJRA通算800勝達成。フランス・ロンシャン競馬場のムーラン・ド・ロンシャン賞でスキーパラダイスに騎乗し、JRA所属の騎手としては初めての海外G1勝利。史上最速・最年少(25歳5ヶ月)でJRA通算900勝を朝日チャレンジカップ(騎乗馬ツルマルガール)で達成。

■1995年、史上最速・最年少(26歳4ヶ月)でJRA通算1000勝を父、武邦彦管理馬のエールノコイビトで達成。

■1996年、史上最速・最年少(27歳1ヶ月)でJRA通算1100勝達成。史上最速・最年少(27歳7ヶ月)でJRA通算1200勝達成。

■1997年、史上最速・最年少(28歳3ヶ月)でJRA通算1300勝達成。北九州記念でダンディコマンドに騎乗、史上最速・最年少(28歳4ヶ月)でJRA重賞通算100勝達成。函館3歳ステークスでアグネスワールドに騎乗、史上2人目の中央競馬全10場重賞制覇達成。

■1998年、史上最速・最年少(28歳10ヶ月)でJRA通算1400勝達成。東京優駿(日本ダービー)でスペシャルウィークに騎乗、東京優駿(日本ダービー)初制覇を果たすとともに保田隆芳以来30年ぶり史上2人目となる八大競走完全制覇達成。フランス・ドーヴィル競馬場のモーリス・ド・ゲスト賞でシーキングザパールに騎乗し、日本調教馬初の海外G1制覇に導く。史上最速・最年少(29歳5ヶ月)でJRA通算1500勝達成。

■1999年、史上最速・最年少(30歳1ヶ月)でJRA通算1600勝達成。東京優駿(日本ダービー)でアドマイヤベガに騎乗、史上初となる日本ダービー連覇達成。史上最速・最年少(30歳7ヶ月)でJRA通算1700勝達成。

■2000年、史上最速・最年少(31歳1ヶ月)でJRA通算1800勝達成。

■2001年、史上最速・最年少(32歳7ヶ月)でJRA通算1900勝達成。

■2002年、東京優駿(日本ダービー)でタニノギムレットに騎乗、史上初となる東京優駿(日本ダービー)3勝目。史上最速・最年少(33歳6ヶ月)でのJRA通算2000勝達成。12月7日、阪神競馬場にてJRA新記録、世界タイ・レコードとなる1日8勝を記録。

■2003年、エリザベス女王杯でアドマイヤグルーヴに騎乗、史上初となる同競走3連覇達成。年間通じて、JRA・地方における全GIに騎乗。史上最速・最年少(33歳11ヶ月)でJRA通算2100勝を達成。史上最速・最年少(34歳5ヶ月)でJRA通算2200勝を達成。JRA史上初の年間200勝達成(最終的には204勝)。

■2004年、史上最速・最年少(34歳10ヶ月)でJRA通算2300勝を達成。史上最速・最年少(35歳5ヶ月)でJRA通算2400勝を達成。12月8日海外通算100勝を達成。12月12日・中山競馬場にて自らが2003年に達成して以来史上2回目、かつ中央競馬史上初の2年連続で年間200勝を達成。2003年に自ら記録した204勝の年間最多勝利記録を更新する211勝で、一年を終えた。

■2005年、史上最速・最年少(35歳10ヶ月)で岡部幸雄以来中央競馬史上2人目となるJRA通算2500勝を達成。2月26日、アーリントンカップにビッグプラネットで優勝し、中央競馬史上初の重賞競走通算200勝を達成。3月27日、中京競馬場で行われた高松宮記念にアドマイヤマックスで勝利し、JRAのGI競走が行われた全ての競馬場でGI勝利。5月29日、東京優駿(日本ダービー)でディープインパクトに騎乗、史上初で自らの記録を更新する東京優駿(日本ダービー)4勝を達成。また同競走の勝利により、年間100勝最速記録を更新。JRA2600勝を史上最速・最年少(36歳4ヶ月)で達成。9月4日、小倉2歳ステークスをアルーリングボイスで優勝。史上初の同一年小倉開催平地重賞完全制覇達成。9月17日から9月24日にかけて、騎乗機会連続7連勝達成(24日第9競走)。また9月24日には、1日の騎乗機会6連勝のJRA新記録を達成。10月23日、ディープインパクトの三冠(史上2頭目の無敗三冠)達成で自身も初の同一馬による三冠ジョッキーとなると同時にGI通算の50勝も達成。11月26日、ジャパンカップダートにカネヒキリに騎乗して優勝。JRAのGI年間6勝の新記録達成。また前人未到の3年連続年間200勝。12月18日、阪神牝馬ステークスにアドマイヤグルーヴに騎乗して優勝し、年間重賞勝利23勝とし、自らの記録を上回る新記録を樹立。年間勝利数を212とし、2004年の自らの最多勝記録を更新。

■2006年、1月8日の京都競馬第9競走にてJRA2700勝を史上最速・最年少(36歳10ヶ月)で達成。7月23日の小倉競馬第12競走にてJRA2800勝を史上最速・最年少(37歳4ヶ月)で達成。

■2007年、4月21日の京都競馬第7競走にてJRA2900勝を史上最速・最年少(38歳1ヶ月)で達成。7月21日小倉競馬場で4勝の固め勝ちをし、岡部幸雄元騎手が持っていたJRA歴代最多勝記録2943勝を更新する2944勝目を14104回目の騎乗で挙げた。8月11日、アスコット競馬場で行われた世界4チーム・地域対抗「シャーガーカップ」に世界選抜チームの一員として出場し、アスコット競馬場で日本人騎手初優勝達成。連対率4割を残し、見事世界選抜を総合優勝に導いた。


【騎乗馬】
■スーパークリーク(菊花賞、天皇賞(春・秋))
初GI勝利馬。菊花賞では同馬は賞金の関係で除外になる可能性もあったが、武は同馬での騎乗にこだわったという。オグリキャップとはライバルに当たる馬だった。

■シャダイカグラ(桜花賞)
桜花賞では不利だとされる大外枠から出遅れて結果的に内を確保して勝利。『内に入るためわざと出遅れた』という逸話が広まる。

■イナリワン(天皇賞(春)、宝塚記念)
騎乗したのは2回のみだがそのうち2回ともがGIで、2回とも勝っている。1989年から1992年までの天皇賞(春)4連覇、1990年春までの天皇賞3連勝の最初のパートナーでもある。

■バンブーメモリー(スプリンターズステークス、マイルチャンピオンシップ2着2回)
1989年マイルチャンピオンシップでのオグリキャップとのハナ差の敗戦が有名。
父・邦彦の管理馬で、スプリンターズステークス優勝は正に親孝行だった。

■オグリキャップ(安田記念、有馬記念)
騎乗したのは2回のみだがそのうち2回ともがGIで、2回とも勝っている。マスコミからはこのときアイドルジョッキーだった武とアイドルホースのオグリキャップとのコンビは前述のように『ゴールデンコンビ』とまで言われた。引退レースとなった有馬記念での勝利は、奇跡の復活とまで言われ17万人の大歓声に応えた。しかし武本人はオグリキャップについて「コンビを組んだことよりも、(たとえば1989年マイルチャンピオンシップなど)してやられたイメージのほうが強い」と語っている。

■メジロマックイーン(天皇賞(春)2回、宝塚記念)
天皇賞(春)を勝ってメジロアサマ、メジロティターンに続く親子3代天皇賞制覇の偉業達成。天皇賞(秋)で1位入線したが、他馬への妨害で降着。その後天皇賞(春)を史上初の連覇と宝塚記念を勝つ。

■ベガ(桜花賞・優駿牝馬)
春の二冠を制覇。皐月賞のナリタタイシンと合わせ春クラシック3連勝達成。

■オグリローマン(桜花賞)
オグリキャップの半妹で、婚約発表の10日後に桜花賞を制覇。2着馬がツィンクルブライド、3着馬がローブモンタント(婚礼で着飾る立襟の豪華ドレス)と結婚がキーワードの馬であった。
スキーパラダイス(ムーラン・ド・ロンシャン賞、京王杯スプリングカップ)
日本人初欧州GI制覇の快挙。

■ホワイトマズル(“キングジョージ”2着)
キングジョージでは、直線で騎手が落馬して「カラ馬」となったEzzoud(エズード)に邪魔をされるハプニングがあり2着。また凱旋門賞では1番人気に推されたものの、後方から追い上げ及ばず6着に終わった。レース後、チャップルハイアム調教師は双眼鏡を叩き割り、「タケのようなジョッキーは、ニホンで乗ってればいいんだ」と悪態をついた。また、ヨーロッパのマスコミはここぞとばかりに武の騎乗振りを罵倒した。

■ダンスパートナー(優駿牝馬)
1995年優駿牝馬に優勝。夏はフランス遠征を敢行し、結果はG3で2着、G1で6着。敗れたものの牝馬ながら菊花賞にも挑戦した。

■エアグルーヴ(優駿牝馬、天皇賞(秋))
1996年優駿牝馬で親子2代での優駿牝馬制覇達成。1997年天皇賞(秋)も優勝し、グレード制導入後初の牝馬による牡馬混合中長距離GI勝利を達成。続くジャパンカップで2着。

■ダンスインザダーク(菊花賞)
皐月賞回避、東京優駿(日本ダービー)はフサイチコンコルドに強襲され、惜しくも初の東京優駿(日本ダービー)制覇を逃す。しかし菊花賞では上がり3ハロン33秒8で差しきり優勝。ゴール後珍しく渾身のガッツポーズを見せた。

■マーベラスサンデー(宝塚記念)
重賞4連勝など活躍しながらGIになかなか手が届かなかったが、1997年宝塚記念で戴冠。

■シーキングザパール(NHKマイルカップ、モーリス・ド・ゲスト賞)
NHKマイルカップまで重賞4連勝。日本調教馬として初の海外G1制覇。

■サイレンススズカ(中山記念、金鯱賞、毎日王冠、小倉大賞典)
旧5歳時に毎日王冠まで6連勝。ただし、当馬唯一のGI勝利である宝塚記念では武豊はエアグルーヴに騎乗し、鞍上は南井克巳。圧倒的一番人気を背に望んだ1998年天皇賞(秋)にて故障を発症、予後不良となる。これには武も相当落ち込んだようで、後輩の福永祐一も、「あんな落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言しているほどだった。その日の夜はワインを煽るように飲み泥酔する武が目撃されている。わざわざオープン特別にもかかわらず東上して乗ったことから、相当思い入れが強かったようであり、宝塚記念の直前にも何度も調教師にこの馬の調子を伺っていたようである。

■スペシャルウィーク(東京優駿(日本ダービー)、天皇賞(春・秋)、ジャパンカップ)
この馬で東京優駿(日本ダービー)初優勝。この時、あまりの興奮に鞭を落としてしまった。また、武豊のジャパンカップ初制覇をもたらした馬でもある。1999年有馬記念では武豊は「アタマ差は勝った」と感じ、負けたのにウイニングランという珍事が発生。

■アドマイヤベガ(東京優駿(日本ダービー))
前年のスペシャルウィークに続いてJRA史上初となる東京優駿(日本ダービー)連覇。親仔2代のGI制覇。

■アグネスワールド(アベイ・ド・ロンシャン賞、ジュライカップ)
フランスのG1、アベイ・ド・ロンシャン賞およびジュライカップを制覇。日本ではGIを勝てず。

■エアシャカール(皐月賞、菊花賞)
菊花賞では内に斜行する癖を掌握して内から伸び、見事に二冠を達成した。

■トゥザヴィクトリー(エリザベス女王杯)
2001年、世界最高峰のレースであるドバイワールドカップで、世界の強豪を相手に逃げ粘りキャプテンスティーヴの2着。同年のエリザベス女王杯では後方待機策で接戦の末に優勝(武は「勝つにはあれしかなかった」と勝利ジョッキーインタビューで語っている)。

■クロフネ(NHKマイルカップ、ジャパンカップダート)
フランスから急遽帰国し跨った2001年NHKマイルカップでGI制覇。その後外国産馬で初のダービー参戦を果たすが惜敗。天皇賞(秋)を除外され出走した武蔵野ステークスでは1分33秒3の日本レコードで勝利。ジャパンカップダートでも2分5秒9の日本レコード勝ちをした。

■タニノギムレット(東京優駿(日本ダービー))
NHKマイルカップは3着。2002年東京優駿(日本ダービー)で後の年度代表馬シンボリクリスエス以下を差し切り、JRA初の東京優駿(日本ダービー)3勝目。

■ゴールドアリュール(フェブラリーステークス、ジャパンダートダービー、ダービーグランプリ、東京大賞典)
ダートで開眼。地方を中心に快進撃を続けた。サンデーサイレンス産駒初のJRAダートGI制覇。JRA最優秀ダートホース。

■ファインモーション(秋華賞、エリザベス女王杯)
3歳馬として初めてエリザベス女王杯を無敗で制覇。

■ダンスインザムード(桜花賞)
2004年桜花賞優勝で、調教師の藤沢和雄に初のクラシックタイトルをプレゼントした。アメリカンオークス招待ステークスでは2着に敗れた。

■アドマイヤグルーヴ(エリザベス女王杯2回)
牝馬三冠競走では相次いで出遅れて3、7、2着も、2003年、2004年のエリザベス女王杯連覇。

■タイムパラドックス(ジャパンカップダート、川崎記念、帝王賞、JBCクラシック)
2004年JBCクラシックで初騎乗(3着)以降、取りこぼしは多いが、ここ一番のGIでは力の違いを見せ付けた。G1

■ディープインパクト(クラシック三冠、天皇賞(春)、宝塚記念、ジャパンカップ、有馬記念)
デビュー以来無傷の7連勝で、シンボリルドルフ以来の2頭目の無敗のクラシック三冠を達成。有馬記念では2着に敗れ、無敗での4冠達成はならず。2006年天皇賞(春)、宝塚記念にも優勝し、凱旋門賞へ出走するも3位入線後、失格。帰国後、ジャパンカップ、有馬記念に勝利した。日本ダービーに勝利した際に「過去の馬とは比べたくありません。すでにこの馬が名馬なのですから」と語る。

■カネヒキリ(ジャパンダートダービー、ダービーグランプリ、ジャパンカップダート、フェブラリーステークス)
統一GI連勝の後、ジャパンカップダート、フェブラリーステークスも優勝。ドバイワールドカップに出走し5着(後に2着馬Brass Hat ブラスハットが薬物検査で陽性反応が出たため失格となり、4着と繰り上げ訂正)。

■アドマイヤムーン
3歳時から騎乗。共同通信杯・弥生賞と連勝するも、春クラシック2戦は敗戦。距離適性を考え菊花賞ではなく天皇賞(秋)に出走するがこちらも3着に敗れる。しかし翌年ドバイデューティーフリーを制し、初GI制覇が海外GIとなった。 しかし宝塚記念は近藤利一の意向で降板の憂き目にあう。

■ハルウララ(競走成績113戦0勝)
高知競馬の交流重賞・黒船賞の次のレースに騎乗。結果は大敗するものの、取材陣の多さに「ダービー勝ったときより、今日は取材陣が多いですね」とおどけた(この時も負けでウィニングランを行っている)。


【エピソード】
《競馬に関して》
■騎手になったのは父の影響ではなく、小学生の頃にシンボリルドルフを見て「こういう凄い馬に乗りたい」と思ったからとデビュー後に語っている。

■デビュー当時「武邦彦の息子」と言われたことに発奮し、「武邦彦の息子ではなく、父のことを『武豊の父』と言わせてみせます」と発言した。弟の幸四郎がデビューする際は「今は幸四郎が豊の弟と呼ばれているけど、将来、幸四郎の兄と呼ばれないように頑張りたい」と発言している。

■最も多く勝った重賞は阪神大賞典の8勝(2007年3月18日現在)で、カブトヤマ記念8勝の保田隆芳に並ぶ。

■武が安田記念にオグリキャップへの騎乗が決定した際は「ゴールデンコンビ実現」と各メディアが報道した。

■1989年から1990年に3強といわれたオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンの3頭全てに騎乗しGIを7勝している。

■マイルチャンピオンシップととても相性が悪く、バンブーメモリー、ファインモーション、ダンスインザムードでの2着があるものの、地元関西のGIで唯一未勝利である。特にバンブーメモリーで臨んだ1989年は惜しいレースだった。この年安田記念も勝ったバンブーメモリーは本命と目されていたが、秋の天皇賞で敗れたオグリキャップ陣営が急遽参戦を決め、鼻差で勝利をさらっていった。このレースはマイルチャンピオンシップ屈指の名勝負と呼ばれているが、武にとっては悔しい鼻差だったに違いない。なお、オグリキャップを秋の天皇賞で負かしたのは武騎乗のスーパークリーク。皮肉にも自分の好騎乗が巡り巡って最大のマイルチャンピオンシップ制覇のチャンスを逃がす結果につながってしまった。ちなみに京都の芝・外1600mを苦手としてるわけではない。また、マイルチャンピオンシップを制すと現在京都で行われている重賞全制覇を達成することとなる。

■有馬記念とも相性が悪く、デビュー4年目の1990年にこれが引退レースとなるオグリキャップで制し感動を呼んだが、同じくラストランとなった2006年のディープインパクトでの勝利まで16年間優勝できなかった。その前年も当時無敗のディープインパクトに騎乗し単勝1.3倍に支持されたが、ハーツクライに1/2馬身差の2着に敗れた。逆に2着が多く(1989年スーパークリーク、1991年メジロマックイーン、1996年・1997年マーベラスサンデー、1999年スペシャルウィーク、2003年リンカーン、2005年ディープインパクトの計7回)、珍記録にもなっている。

■競馬学校の2年先輩である石橋守を敬愛している。行動を共にすることがよくあり、騎乗するレース(特に重賞)で自分が負けても、石橋が勝てば納得の表情を浮かべることが多い。特にメイショウサムソンで石橋がGI初制覇を成し遂げたとき、自分の事のように喜んでいた。

■普段はインタビューにもギャグを交えて気さくに答え、人柄の良さを感じさせるが、レースでのショックが大きいときは人が変わったように無愛想になるときもある。凱旋門賞でディープインパクトに騎乗し負けたときは、勝てると思っていたぶんショックが大きかったのか、敗戦後に駆け寄ってくるインタビュアーを振り切るように引き上げていった。また、天皇賞(秋)でサイレンススズカに騎乗し、同レースで同馬が予後不良になったあとに故障の原因を聞かれたときも同様であった。

■安藤勝己騎手のことを「あのおっちゃん」と言った事がある。

■2002年に亡くなったサンデーサイレンスのたてがみをお守りとして財布の中に入れている。

■2006年1月16日にノーザンホースパークで2005年で引退したアドマイヤグルーヴ、アドマイヤドン、アドマイヤマックスとの合同引退式が行われ、3頭すべてに騎乗経験のあった武豊は、グルーヴはデビューから騎乗しており、引退レースに勝利し騎手として最高の仕事ができ、マックスは能力がありながら結果を出せなかったけど、高松宮記念でベストパフォーマンスを見せられ、ドンは2004年の南部杯を大本命で負けて(2着)近藤オーナーに怒られたのを覚えているとそれぞれの馬の思い出を語った。

■2007年7月21日に小倉競馬場で行われた最終レースの有明特別をヒシワンスモア(母・ヒシナタリー)で制し、新記録となるJRA通算2944勝目を挙げた。その表彰式では父の邦彦調教師から花束を贈呈され、騎手仲間から胴上げされた。その時に「長い間、お疲れ様でした」と後輩騎手に引退するかのように言われたと自身の日記で語っていた。


《マスメディアへの出演》
■笑っていいとも!の名物コーナーであるテレフォンショッキング出演歴あり。1回目は1989年12月21日で早見優から紹介されて佐野量子を紹介し、2回目は2002年1月9日で小泉孝太郎から紹介されて陣内孝則を紹介した。

■趣味はゴルフで、ゴルフ誌に登場したこともある。以前趣味だったスキーは、友人の岡潤一郎がレース中の落馬事故で亡くなってからは行かなくなった。

■1991年、TBSの2時間ドラマ「拝啓オグリキャップ様」で本人役でドラマ初出演(友情出演)。賀来千香子などと共演した。

■スポーツニッポン(スポニチ)を愛読しており、同紙・競馬ページにコラム「武豊のサタデー・サンデー物語」を執筆している。そのためかスポニチは彼の騎乗馬の印に甘いと言われる。ディープインパクトに「英雄」と名づけたのもスポニチが最初である。

■「武豊TV!」(フジテレビ739)の司会を務めている(ナビゲーターは見栄晴)。

■2005年度上半期NHK朝の連続テレビ小説・「ファイト」に本人の役にて特別出演(9月放映)。


《その他》
■佐野量子と1995年に結婚した。

■佐野量子との結婚式は1995年6月5日に京都の教会で伊集院静・篠ひろ子夫妻を立会人に行われた。披露宴は1995年11月20日に京都府の都ホテルで行われたが「1000勝祝賀会」も兼ねたものだった。この結婚式のために、SING LIKE TALKINGは「Split Of Love」を作曲した。

■阪神タイガースファンで、阪神の選手と親交も深い。甲子園で阪神−巨人戦の始球式を務めたこともある。始球式では通常山なりのボールを投げるが、見事なストレートを投げスタンドから歓声が上がった。また、2000年皐月賞前の水曜日に阪神-巨人戦のゲスト解説を務めた際に阪神のジャンバー姿で放送席に座り、皐月賞についてコメントを求められた際に騎乗馬のエアシャカールについて、自信を持っているコメントを残し、見事好騎乗で勝利。2006年に金子真人ホールディングス(ディープインパクトの馬主)の勝負服姿で、甲子園球場で始球式を行った。万年Bクラス時代は『監督になった気分で、オーダーを自分で組んで勝手にシミュレーションしていた』という。

■芸能人と交流があり、とんねるずや明石家さんま、SMAPの中居正広や木村拓哉や島田紳助等と親交が深い。

■1999年、「おごってジャンケン隊」(週刊ビッグコミックスピリッツ)にゲスト出演。最後にジャンケンに負けてしまい、食事代(40,162円)を支払った。

■2003年、平井堅「LIFE is ...〜another story〜」のPVに出演。数秒、骨折していた骨盤部分も映っている。

■2005年、「ベスト・スマイル・オブ・ザ・イヤー賞」受賞。

■2005年、雑誌「Number」が選ぶ2005年度MVP受賞。

■読みは違うが字が同じという縁で、愛知県知多郡武豊町(たけとよちょう)には数回招かれ、一日町長を務めたこともある。また、同町にあるJR東海・武豊線の武豊駅の改札口上には、一時期サイン色紙が飾られていた。

■現在の愛車は三菱アウトランダー。CM撮影時に気に入りその場で購入交渉、競馬場で納車。カラーはブラックマイカ。

■2006年2月23日〜27日にタカシマヤ新宿店にてデビュー20周年記念展が開催され、優勝カップや馬具、プライベート写真などの展示、VTR上映等が行われた。また同年4月19日〜24日に高島屋京都店(四条河原町)で、8月30日〜9月4日に伊勢丹小倉店(北九州市)で、2007年2月7日〜15日に高島屋大阪店(なんば)で同様の展覧会が開催。

■2006年10月、社会問題となった筑前町立三輪中学校に通ういじめを苦にして自殺したディープインパクトのファンの中学2年の生徒の両親に対し、「天国で応援して」と色紙を送った。

■大阪税務署主催の「利きビールコンテスト」でも出場者の中で唯一人、全銘柄を的中させたことがある。

■手首の太さで体重の増減が100g単位で分かる。

■好みのブランドはヒューゴ・ボス、ジャンニ・ヴェルサーチ。また腕時計はタグホイヤーがお気に入り。

■ジーパンのサイズは26インチ。

■競馬学校時代には食事制限を苦にし、馬の餌のニンジンを食べていたことがある。この時から「ニンジンは馬の餌で人間の食べるものではない」との認識が生まれ、嫌いな食べ物となった。

■デビューした1987年にトウカイローマンでジャパンカップに出走した際には「デビューの年にジャパンカップに騎乗できるなんて、そうそうない」と語った(実際に菊花賞とジャパンカップの新人騎乗は武が史上初であった)。

■英語圏では「タケ」の音は難しく、「タキィ」、「タキ」と発音されてしまう。もっともこれでも改善されており、海外参戦して日が浅かった頃は「たけ」のローマ字表記「TAKE」から「テイク」と呼ばれていた。

■日本では競馬関係者に武姓が多いことから「ユタカ」と呼ばれることが多い。フランス遠征が多いためフランスの競馬関係者にも知名度があるが、ドーヴィル競馬場の関係者からは「アラン」と呼ばれている。

■競馬をテーマとした漫画『じゃじゃ馬グルーミンUP!』の登場人物弓削 匠(ゆげ たくみ)のモデルは武である(文庫本1巻のあとがきも書いている)。

(出典:Wikipedia)

山崎武司(プロ野球・東北楽天)

山崎 武司(やまさき たけし、1968年11月7日 - )は、愛知県知多市出身のプロ野球選手。現在は東北楽天ゴールデンイーグルス所属。背番号7。ポジションは内野手であるが、指名打者での出場が多い。右投右打(ちなみに、箸は左手)。左手一本のフォロースローでレフトスタンドに打球を放り込む豪快なプルヒッティングが持ち味である。

1999年5月21日より、登録名を『山崎 武司』から『山ア 武司』へ改めた(後述)。


【略歴】
■身長・体重:182cm 100kg
■投打:右投右打
■出身地:愛知県知多市
■血液型:A型
■球歴・入団経緯:愛工大名電高 - 中日(1987年 - 2002年) - オリックス(2003年 - 2004年) - 東北楽天(2005年 - )
■プロ入り年度・ドラフト順位:1986年(2位)
■FA取得・行使:2001年(1回目・行使残留)、2006年(2回目・現在も有資格者)
■英語表記:YAMASAKI
■背番号:22(1987年 - 2002年) - 5(2003年 - 2004年) - 7(2005年 - )
■守備位置:一塁、指名打者、外野、(捕手)
■推定年俸:8250万(2007年)


【球歴】
《プロ入り前》
■知多市立八幡中学校出身。先輩に伊藤敦規投手、後輩に浅尾拓也投手(浅尾の兄が山崎とは中学時代の同級生)がいる。

■愛知工業大学名電高等学校(1983年に名古屋電気高等学校から改称)出身。甲子園出場経験はないものの、通算56本塁打を放っている。ちなみに、現・横浜ベイスターズの工藤公康は5年先輩、現・シアトル・マリナーズのイチロー(本名・鈴木一朗)は5年後輩に当たる。(イチローが大リーグ入団した年のオフにこの先輩後輩の3人衆で写真を撮っている)

■1986年のドラフトで中日ドラゴンズから2位指名を受け、捕手として入団する。ちなみに、同年のドラフト1位は同じ名古屋市にある享栄高校の左腕エース近藤真一(1993年に真市に改名)。


《中日時代前半(ナゴヤ球場時代)》
■1987年、中日でプロ野球選手としてのキャリアをスタート。この年に中日の監督に就任した星野仙一の親友でもある田淵幸一に因み、背番号22を与えられる。入団直後、ロサンゼルス・ドジャース傘下のチームへ野球留学した時には、三塁手としてプレーしていたが、帰国すると捕手に戻る。この年は一軍出場なし。ちなみに、同期入団の近藤は一軍初登板(初先発)でノーヒットノーランを達成するなどの大活躍を見せた。

■1988年も一軍出場なし。ちなみにこの年、中日は6年ぶりにセ・リーグ優勝を果たし、1年後輩の立浪和義が新人王に選ばれている。

■1989年、9月7日の対広島東洋カープ19回戦(広島市民球場)において一軍初出場(9回表、代打で起用される)。9月10日の対ヤクルトスワローズ19回戦(ナゴヤ球場)においてプロ初安打(9回裏、内藤尚行からレフト前ヒット)を放つ。10月15日の対広島26回戦(広島)において、先発捕手として出場するが、盗塁王を狙う正田耕三に5連続盗塁を許し、試合途中で2年先輩の正捕手中村武志と交代させられる。これ以降、外野手に転向。二軍では、ウエスタン・リーグの本塁打王、打点王を獲得する。

■1990年、ウエスタン・リーグで本塁打王、打点王を2年連続で獲得する。

■1991年、5月9日の対横浜大洋ホエールズ5回戦(横浜スタジアム)において、5回表に田辺学よりプロ入り初本塁打を放つ。

■1993年、一軍での出場を増やし、先発右翼手となりかける。

■1994年、チームの主砲落合博満がFA宣言をして読売ジャイアンツへ移籍。代わりに大豊泰昭が外野手から内野手へ転向する。山崎にとっては出場機会を増やす好機であったが、彦野利勝の復活などにより逆に出場機会を減らしてしまう。

■1995年、16本塁打を放ち、先発左翼手となる(開幕前の自主トレでは同い年で現役のWBC世界バンタム級チャンピオン薬師寺保栄に師事しボクシングの練習を取り入れた。山崎と中日同期入団である近藤は薬師寺と享栄高校の同級生で、その縁で交友があった。山崎は、1994年12月4日、名古屋市総合体育館で薬師寺が暫定王者辰吉丈一郎破り3度目の防衛=王座統一した世紀の一戦をリングサイドで観戦している)。

■1996年、星野が中日の監督に復帰。5月1日の対巨人5回戦(ナゴヤ)において、5回裏にバルビーノ・ガルベスの投球に憤慨してマウンドへ詰め寄り、乱闘騒ぎのきっかけを作ったとされ、ガルベスとともに退場処分を受ける。6月19日の対巨人10回戦(ナゴヤ)において、8回裏に槙原寛己から5番・音重鎮、6番・山崎、7番・大豊が3者連続本塁打を放つ 。6月は打率.403、13本塁打、33打点を記録し、月間MVPに選ばれる。オールスターゲームまでのシーズン前半を打率、本塁打、打点の三部門のトップで終え、オールスターゲームにも監督推薦で出場する。中日・巨人ともに最終戦となった10月8日の対巨人26回戦(東京ドーム)において、39本塁打の山崎は、38本塁打の松井秀喜(当時・巨人/現・ニューヨーク・ヤンキース)、37本塁打の大豊と本塁打王を競っており、中日投手陣は松井に全打席四球を与えて最終的に39本塁打の山崎が、38本塁打に終わった松井、大豊を抑え、単独で本塁打王を獲得する。最高長打率(.625)も記録し、ベストナインにも選ばれる。ちなみに、この年の山アは打率、本塁打、打点のすべてで松井を上回ったが、巨人が優勝したため、松井がシーズン最優秀選手に選ばれている。


《中日時代後半(ナゴヤドーム時代)》
■1997年、中日の本拠地がナゴヤ球場からナゴヤドームへ移るが、中日は新しい本拠地に適応できず5年ぶりのセ・リーグ最下位に終わる。山崎も外野が広くなり守備の負担が増えたことなどから、打撃成績を大幅に落とす。

■1998年、一塁手であった大豊が阪神タイガースへトレードされたため、この年から主に一塁手としてプレーすることになる。8月18日の対ヤクルト18回戦(神宮)において、2回表にプロ入り通算100号本塁打をマーク・エーカーより放つ。通算100本塁打達成はプロ野球史上198人目。この年は16勝利打点を記録し、最多勝利打点で表彰される。27本塁打は、巨人の松井、広島の江藤智(現・西武ライオンズ)に次ぐ、セ・リーグ3位。最優秀JCB・MEP賞を受賞する。11月1日のセ・リーグ東西対抗戦(宮崎市営球場)において、3点本塁打を放ち、最優秀選手賞を受賞する。

■1999年、5月9日の対広島9回戦(広島)において、5回、6回、8回に、3打席連続本塁打を放つ。9月26日の対阪神26回戦(ナゴヤドーム)、中日が2-1とリードしていたが、9回表に抑えの守護神・宣銅烈がマーク・ジョンソンに3ラン本塁打を打たれ2-4と逆転される。しかし、9回裏一死一・二塁で福原忍から逆転サヨナラ本塁打を放って中日が勝利する。この時に取った、両足を広げ拳を握り両手を掲げた「X」字型のポーズは、ファンの間で山崎の代名詞とされている。この日の勝利により優勝へのマジックナンバーを5とした中日は、4日後の9月30日、対ヤクルト26回戦(神宮)で11年ぶりのセ・リーグ優勝を決める。しかし、この試合で一塁守備中に打者走者の真中満と交錯して左手首を骨折。このため、山崎は福岡ダイエーホークスとの日本シリーズに出場することができず、チームも1勝4敗で日本一を逃した。

■2000年、7月12日の対阪神15回戦(ナゴヤドーム)において、7回裏にプロ入り通算150号本塁打を吉田豊彦(現東北楽天ゴールデンイーグルスであり、同僚)より放つ。通算150本塁打達成はプロ野球史上114人目。オールスターゲームに監督推薦で出場。7月23日にグリーンスタジアム神戸で行われた第2戦において4打数3安打2打点と活躍。MVPを受賞する。シーズンでは打率.311と、1996年の打率.322に次ぐ好成績を記録するが、契約更改で18本塁打が少な過ぎると指摘される。

■2001年、10月6日の対広島28回戦(広島)において、プロ入り通算1,000試合出場を記録する。1,000試合出場達成はプロ野球史上376人目。この年、チーム最多の25本塁打を放ったが、契約更改で今度は打率.238、51打点が低過ぎると指摘される。この評価に納得がいかずFA宣言。一時は金銭面で好条件を提示された横浜ベイスターズ移籍へ傾くが、最終的には中日と3年契約を結び残留。ちなみにこの年、1年後輩の立浪が中日と4年契約を結び、チームリーダー、幹部候補としての立場を明確にする。

■2002年、チームのヘッドコーチを務めていた山田久志が監督に就任。山崎はオープン戦から不調で、4月末に二軍へ降格させられる。二軍戦でも不調が続いたが、レオ・ゴメスの故障により、7月初旬から一軍復帰。7月26日の対阪神15回戦(甲子園)において、同点で迎えた9回表に満塁のチャンスで空振り三振。チームもサヨナラ負けを喫してしまう。試合後、山田は「どこかでブツっと切ってしまう。なんかお通夜みたいなもんだ。さらにアイツを使うオレが悪いんだけど。チームを奈落の底につき落としてしまう選手がいる。何とかしてくれたらいいんだけど」と発言する。この発言が山崎を指したものか不明であったが、この後もほとんど出場機会を与えられることはなく、この年のシーズン終了後、平井正史との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍することとなる。


《オリックス時代》
■2003年、平井との交換トレードでオリックス入り。背番号5を与えられる。この年、オリックス監督を務めていたのは石毛宏典であったが、開幕から1ヵ月も経たない4月23日に解任となり、打撃コーチのレオン・リーが新監督に就任する。8月19日の対ダイエー22回戦(福岡ドーム)において、2回表にプロ入り通算200号本塁打を倉野信次から放つ。通算200本塁打達成はプロ野球史上77人目。8月25日の対日本ハムファイターズ22回戦(ヤフーBBスタジアム)において、2回裏に関根裕之の投球を球審・白井一行に見逃し三振と判定されたのに不満を示すと、球審に侮辱的な態度を取ったとして退場処分を受ける。この年、規定打席不足ながらチームの日本人選手の中では最多の22本塁打を放って気を吐くが、オリックスは2年連続パ・リーグ最下位に終わる。ちなみにトレード相手の平井はこの年12勝を記録。見事に復活を遂げてカムバック賞を受賞している。

■2004年より、前年まで西武ライオンズ監督を務めていた伊原春樹がオリックス新監督に就任。4月27日からの西武との3連戦(ナゴヤドーム)において、ご当地選手であるため伊原から先発を公約されており、この日の試合では指名打者として先発出場。3打数2安打と活躍する。しかし、この試合中に負傷した谷佳知を伊原が翌28日に指名打者として先発させたため、山崎は先発から外される。関係者も多数招待していた試合での先発落ちにショックを受け、試合開始前に自宅へ帰ってしまう。これまで打率.390(41打数16安打)と好調だったが、試合前に帰宅したことで「職場放棄」と見なされたのか、その翌日に懲罰的な意味で二軍へ降格させられる。これ以降、二軍落ちを何度も経験し、チームもパ・リーグ3年連続最下位に終わる。9月には球団から戦力外を通告され、一時は引退も考えたが、高校の先輩である巨人・工藤の勧めなどもあり、現役続行を決意。12月11日、新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスと契約する。


《東北楽天時代》
■オリックスから戦力外通告を受けた山崎は2005年に東北楽天入り。背番号は自らの娘の名前に因んで7をもらった。この年、楽天は50年ぶりの新規参入球団としてパ・リーグに参戦、田尾安志がチームの初代監督を務めた。3月26日球団史上初の公式戦である千葉ロッテマリーンズとの開幕戦(千葉マリンスタジアム)では「5番・指名打者」で先発出場。開幕直後は右手に死球を受けて負傷し、二軍で治療に専念するなどあまり活躍できなかったが、この年から始まったセ・パ交流戦に入ると調子を上げ、5月7日の巨人2回戦(フルキャストスタジアム宮城)で9回裏に中日時代の同僚前田幸長から球団史上初の代打本塁打を記録。6月初めから4試合連続の5本塁打を放つ。交流戦後は「4番・指名打者」として定着するようになる。7月2日の対日本ハム6回戦(フルスタ宮城)において、3回裏に江尻慎太郎よりレフト前ヒットを放ち、プロ入り通算1000本安打を達成する。通算1000安打達成はプロ野球史上234人目。プロ19年目での達成は稀有のスロー記録。事実上、楽天の初代4番としてのシーズンとなった(実際は第5代にあたる)。7月27日の対日本ハム戦の試合前に仙台市内の小学校を訪問。子供達に「ホームランを打つ」と約束して臨んだこの日の試合で満塁ホームランを放ち、子供達との約束を果たした。この年、チームはダントツの最下位に終わったが、チーム最多となる25本塁打を放って4番としての役割を十分に果たした。

■プロ20年目を迎える2006年は新監督・野村克也からチームの主軸として、またチームリーダーとして期待される。6月17日の対巨人戦(東京ドーム)において高校の先輩である工藤公康から二打席連続本塁打を放ったり(2005年には工藤のノーヒットノーランを阻止する安打を放っている)、7月29日には楽天初となる逆転満塁ホームランを放った。8月5日、史上49人目となる通算250本塁打を達成。プロ20年目で到達した山崎は「開幕から1つの小さな目標としてきたので、達成できてうれしいです」と喜びを語った。

■野村は山崎の野球への取り組みを高く評価。春先には「山崎は一生懸命やってても一生懸命やってるように見えない(損な奴やな)」と語った。また、楽天のルーキー山崎隆広は、内角のさばき方の手本として阪神の今岡を挙げると、野村は「天才の真似はできないからするな。苦労してつくった人の真似をせい」と「努力型」の例としてまっさきに山崎武司の名を挙げた。シーズン中には、山崎が変化球に倒れ凡退すると「もっとうぬぼれろ!お前にストレートが来るわけないだろ!」と激励するなど、ベテラン和製大砲に全面的な信頼を寄せている。また山ア自身も野村の野球観に心酔。「この年になって毎日が新たな発見」と探究心に余念がなく、お互いに密接な関係を築きつつある。

■今やチームの精神的支柱として欠かせない存在となっている。入団以来連敗が続いていた松崎伸吾に対し「オレはお前みたいなピッチャーを見たことがある。何の変哲もなかったけど、努力して球界を代表する投手になった」と、同じ左腕投手である野口茂樹(現読売ジャイアンツ)を引き合いに出して激励したり、捕手の嶋基宏がミスして負けた時にも「お前のせいで負けたんやぞ」と言いながら、安打が出ないと「もっと打席でバットを振れ」とフォローしたりしている。

■東北楽天に入団してから、読売ジャイアンツ(2005年はオリックス・バファローズ所属)の投手であるジェレミー・パウエルとは2年連続で手に死球を与えられて負傷してしまったという因縁があり、2006年の死球の際には山崎がパウエルに向かって「これで2回目だぞ!」という意味を込めて指を2本立てながら絶叫し、マウンドに詰め寄ろうとしてあわや乱闘の騒ぎになった。また2007年4月25日のオリックス戦でランス・カーターから死球を受けた際は、それまでの経緯(楽天の投手2人がグレッグ・ラロッカに2度死球を与え、オリックス投手の吉井理人がケビン・ウィットに対して威嚇ともとれる頭部付近への投球を行った)から山崎は報復と思い、マウンドに詰め寄ろうとした。そしてそれを止めようとした日高剛のマスクをはたき落としたため、両軍入り乱れる乱闘騒ぎとなった。その騒ぎの中でオリックス所属のタフィ・ローズが山崎を小突いたとして退場が宣告されたが、日高のマスクをはたき落とした山崎については審判が見ていなかったということで何ら処罰を受けなかった。仮に目撃していたら退場にしていたと永見武司球審は語っている。

■2007年4月1日、対オリックス・バファローズ戦(フルキャストスタジアム宮城)で吉井理人から1イニング2本目となる満塁本塁打を放った(1本目はホセ・フェルナンデスの満塁本塁打)。1イニング2満塁本塁打はセ・パ両リーグ合わせて史上3度目、パ・リーグでは1999年8月20日に秋山幸二、小久保裕紀が記録して以来の出来事である。また、小久保の本塁打はランニングホームランであったため、2本の柵越え満塁本塁打としてはパ・リーグ史上初となる。

■2007年5月、パ・リーグ野手の月間MVPを獲得。月間MVP獲得はチーム発足後初であり、自身も中日時代の1996年6月以来の10年11ヶ月ぶりであり、これはプロ野球史上最長のブランクとなる。

■2007年6月14日、通算1500試合出場達成。1500試合出場は史上152人目。

■2007年のガリバーオールスターゲームでは指名打者として最多得票を獲得した。そして迎えたフルキャストスタジアム宮城での第二戦では第一打席に先制の2ランホームランを放つと、第二打席でも二塁打を放ち、優秀賞、ガリバー賞(2試合通して最も印象に残った選手を顕彰)を獲得した。

■2007年はハイペースでホームランを量産しているが、統計によると第2打席でのホームランが多い事が明らかになった。現在は、タフィ・ローズと激しいタイトル争いを演じている。

■2007年8月27日には本拠地フルキャストスタジアム宮城でこの日誕生日を迎えた愛娘の前で、39号2ラン・40号3ランを放ちプロ21年目にして初めて40本の大台に乗せた。


【エピソード】
《野球関係》
■中学野球では本塁打を1本も打っていない。

■ドラフトの際、実は読売ジャイアンツに入りたかった(同い年で同期の巨人の選手は木田優夫、緒方耕一)と語っている。

■アメリカで教育リーグに参加していた際、3打席連続本塁打を放ち、相手チームの監督からメジャーリーグを目指してアメリカでプレーするよう誘われた。

■1996年に本塁打王のタイトルを獲得した際、本塁打を打つたびに貰えるドアラ人形を生まれたばかりの長男にプレゼントしていた。

■1999年、5月20日まで「山崎武司」の登録名だったが、5月21日現在の名前(山ア武司)に改名した。理由は、5月20日の横浜戦でそのシーズン初めて途中交代と言う屈辱を味わい、試合後の夕食会場で隅っこで食事をしていたところ、中日の佐藤球団社長(当時)に「君はいい選手だよ。だから、もっと自己主張しなさい」と諭され、さらに「ところでやまさきとやまざきどっちかね」と言う話になる。山崎は「やまさきです」と答え、さらに戸籍上では山アであると説明した。さらに、長男が生まれた際、姓名判断によるとその名前は1画足りないということだったが戸籍の名字なら1画増えてちょうどいいと話した。すると、佐藤球団社長が「自己主張のため君も1画増やしなさい」ということで改名がその場で決定。21日昼間に中日球団が連盟に変更を申し入れ受理されると、山崎はその日のヤクルト戦で2回裏に10号2ランを放っており、改名効果を見せ付けている。

■中日監督時代の山田久志、オリックス監督時代の石毛宏典にキャンプで三塁手の練習をさせられたが、いずれも短期間で断念している。

■2001年、2002年には、山崎賢太が中日のチームメイトであったため、スコアボードなどに「山ア武」と表記されていた。2006年からは楽天でも同姓の山崎隆広がチームメイトとなり、同様の表記がなされている。

■「狭い球場が好き」と公言している。特にヤクルトの本拠地である明治神宮野球場が好きである。

■現在の東北楽天の背番号「7」は娘の名前(なな)よりとったもの。この際、オリックスから分配ドラフトで移籍した竜太郎も心機一転を期して7番を希望したが、結局球団は山崎に与え、竜太郎には「実力で奪い取れ」と奮起を促した。

■やや激昂しやすい性格で、死球を受けて投手の所に詰めよったり、審判の判定に不服を持って抗議をしたが暴言を吐き、または侮辱をして退場などということが度々ある。また乱闘になると自分より身体の大きな外国人選手にも平気で向かっていってしまう。

■2007年開幕戦(対西武ライオンズ、於グッドウィルドーム)では、ホセ・フェルナンデスが夫人出産によりチームを一時離脱していたことから、開幕4番として出場。また、一週間後の3月31日のホーム開幕戦(対オリックス・バファローズ、於(フルキャストスタジアム宮城)でも、フェルナンデスが胃腸炎で欠場したことから4番で出場する。しかし、ここまで一週間不調が続いており、結果が残せなかったことから、翌4月1日(同じくオリックス戦)では一気に8番に降格されてしまう。しかし3回、得意とする吉井理人投手から先頭打者としてヒットで出塁すると、4番フェルナンデスの満塁ホームランで得点。さらに、5〜7番が立て続けに出塁したことで満塁の状態で再び山崎に打席が回る。ここで山崎は満塁ホームランを打ち、これが1イニング中2発目の満塁ホームランとなった。ちなみに1イニング2満塁本塁打は史上3度目。

■2007年4月7日、四死球0の状態で犠牲フライを放つなどした関係で、出塁率が打率を下回るという珍事が起きた。また、シーズン開幕1ヶ月間程は安打の半分が本塁打という「ホームランか三振か」状態で、打率は規定打席到達者内で最低ながら本塁打数は1位という時もあった。

■2007年は開幕から好調で、5月27日の横浜戦で両リーグ最速で20号に到達。場外本塁打となって、横浜スタジアムの外の露天の商品に命中。ただし店主は、「長いことやってきたけど、場外ホームランが飛んできたのは初めて。私は運が良いよ。」と喜んでいたという。


《相撲関係》
■八幡中時代は野球部のほか、相撲部でも活躍した。野球では地方大会止まりだったが、相撲では全国大会にも出場し、藤島部屋からスカウトもされた。

■1997年のシーズンオフ、正月番組『プロ野球オールスタースポーツフェスティバル』の相撲競技で優勝。当時巨人の松井秀喜とも対戦。

■1998年のシーズンオフ、正月番組『プロ野球オールスタースポーツフェスティバル』の相撲競技で2年連続優勝。しかし、取組相手であった日本ハムの片岡篤史が右肩脱臼の重傷を負ってしまい、これ以降、プロ野球選手の相撲競技は行われなくなった。

■元前頭筆頭・朝乃若(現・若松親方)は、愛工大高校の1年後輩で親しい。また、元十両2枚目・須佐の湖は八幡中学校の後輩で幼なじみでもある。


《趣味など》
■子供の頃は競輪選手になりたかった。

■1990年12月19日、実家近くで火事の現場に遭遇した際、知人らと協力して炎の中から子供を助け出し、地元消防署から表彰された。このことは、セリーグからも特別表彰を受けた。

■愛車はフェラーリ、メルセデス・ベンツ。2007年にこのうちのフェラーリ・F512Mを楽天オークションに出展。1450万999円で落札されるも、落札者が直後にオークション会員を退会して連絡が取れなくなってしまい、オークション不成立となってしまった。

■趣味はミニカー収集で自宅には3000台ものミニカーがあるという。ラジコンカーも大好きで、中日の山本昌とラジコンカーレース大会『山山杯』を毎年開催している。

■毎年10着のスーツをオーダーメードで新調する。若手選手のファッションに苦言を呈するなど、球界のファッションリーダーを自認している。

■その風貌と性格、「たけし」という名前から、アニメ『ドラえもん』のキャラクターである「ジャイアン」と呼ばれる。これは中日・楽天でチームメイトであった中村武志と区別する意味合いもある。しかしインタビューの受け答えなどは割と丁寧で、声なども優しい声である。

■好物はエビフライ。山崎がプロデュースして2006年8月5日に発売された「どえりゃー山崎弁当」には、山崎のとにかく大きなエビフライが目立つ豪快な弁当にという強い希望に応えて、大海老を頭から丸ごと使った大きなエビフライが入っていた。なお、この弁当は豪快さを売りにする山崎らしくエビフライには大きな有頭エビを使用するなど、関係者によると「1,000円で売り出しているけど、実質は1,500円ぐらいかかっている」という逸品で、「間違いなく売り上げはNo.1」と飛ぶように売れている。好評を受け、2007年8月27日には「山崎でらうまカレー」をプロデュースするが、こちらにも約18cmの巨大エビフライが入っている。

(出典:Wikipedia)

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